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この世に生ゴミなど存在せず、本来なら全て自然界に還元していないとバランスが合わなくなってしまう話 前編「生ゴミが問題化する構図」

先日の記事では、有機物の投入によりダンゴムシやミミズなど様々な生物達が連鎖的に発生する事で、土壌の病原体が抑制されるメカニズムについて言及。

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それら自然界のバランスが整う事で、「環境の基礎体力」も整い、やがて植物の免疫力が強化されるなどの恩恵がもたらされる可能性が示唆されました。


して今回は、「生ゴミの有効活用」についての話題。



ズバリ、この現代社会で「生ゴミ」と定義されている全ては利用可能であり、次世代の作物などを育てる為の養分として還元されている必要があるのではないか。

すなわち植物性にせよ動物性にせよ、それら全て自然界の成分が由来であるとして、元々は何処かの土地から産出されたものである以上、本来ならいずこの土壌へと循環していたはずだからだ。



それを踏まえ端的に言ってしまえば、「この世に生ゴミは存在しない」。



いわば生ゴミとは単なる残骸などでは無く、その姿形を残している限り本質的には「養分の塊」。

それらが元あった場所に戻る事も無く、行き場が失われ続けるほど、環境のバランスが崩れ土地の荒廃さえ起こり得るのです。



なにぶん仰々しい話でありますが、何故そんな結論に達してしまうのか。

内容的には前々回までの記事と似た話になるのだけど、改めてその理由を体系的に纏めながら、順を追って解説して参りましょう。


では、いざ。


🌑利用価値の高い資源が廃棄される構造的欠陥🌑

さて、生ゴミを再利用する試みなど遥か昔から行われている訳で、今さら新しい概念では無い。
その方法も、単純に肥料にするなら土に埋めるだけで済むし、土壌が健全であれば短期間の内に分解されて行く事だろう。


それを証明する意味もあって、当ブログの「食べ蒔きプロジェクト」では野菜などの残骸やタネを使い続けており、これまでに幾つかの収穫物を得る事に成功している。

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また、近年は家庭用コンポストが普及しつつあるし、ゴミの削減が叫ばれる昨今では自治体によって貸し出したり販売価格を安くしてくれる場合もある。
これらの点については既に様々な所で記事となっているので、実践的なノウハウも容易に検索可能なはずだ。



しかし、今回の記事にあたり、個人的には「なぜ養分が戻っていないとダメなのか?」、そして「循環も還元もされなくなった先で何が起こるのか?」と言うメカニズム的な部分こそが最も重要なのではないかと考えている。

何故なら、これら生ゴミを「重要な資源として還元させるだけの理由」が存在するからであるが、これについて表立って語られるシーンは殆ど無いのが現状。
それゆえ、余計に誰にも重要性が伝わっていないし理解もされず、惰性で捨てられ続けている感が否めないのである。



とは言え、いくら「生ゴミの量を減らそう」であるとか「貴重な資源である」などと説明したり啓蒙したとて、一般的な観点からすれば「結局はゴミ」と言う認識がブレる事は無いはずだ。


何しろ、日常生活においてその価値や重要性を認識するシーンなど皆無であるし、無闇に放置していては雑菌により悪臭が発生してしまう。
また家庭内で処理しようにも、コンポストを置くスペースも無ければ堆肥を使う場所すら無い住宅事情だってある。

また、土に埋めても量が多いと分解が追い付かず、場所によっては虫が湧いたり、動物にほじくり返されて荒らされる事案も起こりがちだ。


それこそ、この記事を書いている当の僕でさえ全てを再利用している訳では無く、とりあえず使えそうな部位だけ肥料に回しているだけで、実際は大半を廃棄しているのが正直なところ。
総量に対し再利用されているのは、ほんのごく僅かな量に過ぎないのが実情である。


その意味では、「生ゴミを利活用する為の環境」に未整備の部分が多すぎるため、誰もが簡単に手出し出来るものとは言い難い。
この点を解決しない限り、一般家庭での削減そのものすら進めようが無い部分がある。

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更に、実際のゴミ処理方法としても、基本的には回収され焼却場で灰にされた後、最終処分場に埋め立てられるのが通常で、その内の一部がコンクリなどの建築資材として再利用される程度となっている。


一応、現状では廃棄された食料品が家畜の飼料に回っていたり、あるいは剪定材や間伐材が堆肥化されていたりはするのだが、かと言ってそれら全てが再利用される訳では無い。

そう考えると、やはり完全に再利用されるまでのシステムやインフラが整っていないからこそ、大部分は廃棄せざるを得ない状況と言う事でもある。


では、なぜ再利用しきらないのか理由を推察するに、日々排出されるゴミの量が膨大過ぎて堆肥化するにも分解が追い付かないし、先述の様に量が増えるだけ悪臭や病害虫の増殖のほか、野外ではカラスなど野生鳥獣からのイタズラを抑える事が難しくなる点が挙がる。

また、仮に高効率化がなされたとて、それら処理後の肥料や飼料を卸すにも、客が一度に引き取れる量には限界があるだろうし、かと言って配達するにも輸送コストがかかるなど、作業負担や金銭面でのデメリットが前面に出てしまう。

つまるところ、ただのゴミと化したものを再利用するのに手間がかかるくらいなら、サッサと燃やして存在そのものを無に帰してしまった方が早いのも一理あるのだ。



これら処理方法について総評するに、現代社会に存在する生ゴミの大部分は全くと言って良いほど「使われていないし、使おうとしていないし、使われるための仕組みも無い」事を表している。

それら便宜上、「生ゴミとされてしまっている有機物」が、実は使い方次第で、人類の生活を支えるに重要なエネルギーに転換出来るとしても、である。



この構図を大袈裟に例えれば、金やリチウムなどのレアメタルを回収しないまま捨てる様な話に近い。

いや、一つ違いがあるとすれば、レアメタルでは「いくら原料に還元したり製品に変換しても直接お腹は満たされない」が、生ゴミは「還元すれば直接お腹を満たしてくれる食料の原料になる」事が可能。

それはまさしく、本来なら捨てる理由など無くメチャメチャ利用価値が高いものなのだが、現状では行き場なく用済み扱いされ続け、いまだ抜本的な解消法すら確立されていないのだ。



では何故、さんざん方々から問題提起されていながらも解決を見出だせずにいるのに、それでも改めて解説しようとしているのか?


先ずは、このゴミ問題が発生するまでの、様々な因果関係を整理してみましょう。


🌑養分は自然界に還元されてゆくのが自然な形🌑

極端な予測ではあるが、この生ゴミが然るべく再利用されず、その養分が自然界に還元されないまま処理され続けた先に待つのは、一種の「土地(土壌)の砂漠化」なのでは無いかと考えられる。

あるいは、局所的かつスポット的に起こる砂漠化とも言えようか。

詳細は後述するが、つまり養分の需給バランスに偏りが生じる事で自然界のリカバリー能力が追い付かなくなり、いわゆる「まだら模様」みたいな形で、土壌が荒れた場所や資源が枯渇した土地が現れる可能性があるからだ。



無論、この話も専門家や一部の敏感な人々の間で語られている事であり、かねて以前より懸念材料として警鐘を鳴らされていた部分である。

前々回の記事でも、「土壌から養分が失われ続けると樹木の基礎体力が落ちて回復が追い付かなくなり、結果的に土地の荒廃を招きかねない」と言った旨を述べている様に、この生ゴミ処理における問題も本質的には同じ次元にある。

そう考えると、いま現在に至るまで随分と昔から「一方通行で資源を消耗する構造」に大した変化が無く、依然と繰り返されていると言う事なのだろう。



では、この「一方通行で資源を消耗する構造」の具体例を挙げるに、近代の農業において「大量の肥料」、あるいは牧畜向けの「飼料」が必要とされている現象が象徴的である。

解りやすく言えば、それだけの生産物を賄うためには「その土地の養分」だけでは足りないので、肥料などを何処からか調達しなければならない。
これにより生産量を維持し、市場価格を安定させられる様になり、最終的に消費者の下へ届く事になるからだ。


しかし、かくして消費されたはいいが、それらを原資として生産された作物や家畜から出た残骸が、最終的には焼却処分されるばかりで「何処にも還元されず消費したままで終わっている」から一方通行になってしまう。

つまり元を辿れば、生ゴミが発生する「前の段階」からしてコトが始まっていたのだ。



では何故、いつ、そんな事になったのだろうか?

ここで少し、「そうなる前」の段階を振り返ってみよう。



そもそも「食料(飼料)の原料」となる植物が育つにあたり、基本的には「その場(日照や気候風土)」、「その土地(地質と土壌環境)」、「その養分(周辺にある有機物)」などの要素で成長が賄われるのが通常。

もし外的に栄養補給されるシーンがあるとすれば、近くで生き物の糞が落ちたり死んだり、海風でミネラルが飛んできた、水流で落ち葉が流れてきた等のシチュエーションが該当する。


この場合、「植物と外的に運ばれて来た養分の距離感」は近いパターンが殆どで、大抵は「糞をした生き物の生息域と同じ」、「海や川に近い場所」、「落ち葉が溜まりやすい地形」など、身近な環境から肥料が賄われていた事になる。
そしてこれは植物に限らず、昆虫も家畜を始めとした動物も、野生の環境下において「縄張り内の資源」を基に生活している点で変わりない。


要するに、それまでは「身の回りに存在する分」だけで全てが完結していたし、全てが自然界に還元され循環していた。
だからこそ適切にバランスが保たれて、様々な生物達が連鎖的に生息出来ていた訳である。

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逆に言えば、「その土地から必要以上に持ち出し続けた結果」として荒廃が起こり易くなる。

それを如何に抑えるかが、この先で環境を保全出来るか否かのカギを握るかも知れない。



では、かつては自然界で適切に循環していたはずが、なぜ現代になり生ゴミが再利用しきれず、バランスが崩れるまでに至ってしまったのか?


この要因を紐解く事で、ある事実が浮かび上がって来るのです。


●大量の資源を集めないと維持が出来ない構造●

これが遥か過去の世界であれば、例えば先住民や旧人類にまで遡れば、「ゴミ問題」などと騒がれるほどの資源を消費せずとも生活が成り立っていたものと考えられる。


その理由として、古代の「貝塚」を例にすれば解る様に、それまでは近隣で狩猟採集してきた獲物の残骸であるとか、コミュニティ内で育てていた植物に樹木の枯れた枝葉、そして糞などの排泄物が環境内で循環していたからだ。

仮に、それらが腐敗したとて、現代と比べれば一時に廃棄される量は少ないはずなので、割りと短期間の内に分解されているか、それに気付かず移動生活していた可能性もある。


また、その頃は現代より遥かに人口密度が薄く、道具やインフラも今ほど発達していないし、病気や怪我などによる死亡率が高く平均寿命も短かった。
しかも 一日に活動出来る時間が短く、それら獲物を獲得する為にも労力を要するため、一人あたりに割り当てられる資源の量には限りがある。

となれば、必然的に需要と供給のバランスは低く保たれる事となるので、それ以上に獲得する必要性も低かった事だろう。



しかし、近代になり人口が増加し、社会が発展した事と連動する形で、様々な点において莫大な量の「外的エネルギー」を獲得する必要性が出てくる様になる。



具体的には例えば、ある一定区画内で、その需給バランス以上の人数を抱えた事により、農業などで広大な面積を必要とするにつれ、それら人員を「養えるだけの食料」、即ち資源が必要になってくる。

これを実現する為には、大きく甘く収量の多い作物を育てたり、家畜を増やして太らせたり、はたまた単に「もっと美味いモノ食わせろ」と言う事でスパイス等を調達して工夫を重ねて来た訳だが、そういった需要や水準を満たす為にも「原資=養分」が不可欠。

となれば、人口を支えられるだけの栄養価が高い農作物や家畜などを大量に育てるには、既存の「その土地にある養分」だけでは圧倒的に不足する事となる。
それこそ、一度収穫してしまえばスッカラカンに使い果たしてしまい、以降はロクに育たなくなるリスクさえ発生しかねない。


ここへ至るに、今度は大きく多くしたモノを維持する為に「外部から集めなければならない量」の方が多くなる。

つまり、かつては「身の回りにある分だけで足りていた」のが、集団や必須栄養量が大規模化するに比例してエネルギー消費量も加速度的に増加。
やがて「それ以上に」集め続けなければ供給にも限界が生じてしまい、そのままでは生存すら難しい状況になってしまったのだ。



個人的には、これが過去に起きた飢饉や口減らしの一因となったのではと考えているが、確かに少しでも滞れば一人あたりに供給される栄養量が劇的に減るだけに、そうなるだけの理由があったのだろう。


言い換えれば、群の個体数や生産規模を拡大するほど「集団の基礎体力(国力)」も増すのだが、その反面、既存の資源だけでは人も作物も家畜もモノも、その維持や成長を賄いきれなくなる矛盾が生じたばかりか、ほんの些細な「環境の変化で総崩れ」を引き起こしかねないリスクまでも抱えた訳である。


🌑維持する為に集めたら別の場所から失われる🌑

そういった崩壊を防ぐ意味でも、生存に必要な食料を大量に育てる為に大量の肥料や飼料など「養分となるモノ」、つまり「外的エネルギー」が継続的に供給されながら現代へと至る。



しかし、ここで重要になるのが、それらの大部分が「全く別の場所」から運ばれて来た資源である事。
それが作付け毎や育成中に、またシーズン中に何度も必要となってしまう点である。


実際のところ、例えばこれらが有機肥料であろうが化成肥料であろうが、どちらも「これまでとは別の場所から運ばれて来た資源」である点については同じ。
即ち、元々は関係ない土地や何処からか産出され、目的(需要)を満たす為に集められたモノで共通している。

ちなみに、これは農産や畜産に限らず、先述の通り「生産物」を大量に作ろうとするほど外的な資源やエネルギー供給に頼らざるを得ない構図であり、人間生活に必要とされる様々なモノにおいても共通した原理となっている。



ここから問題なのは、それら集められた資源が投入された「後」の話である。



当然ながら、そこに含まれていた養分は作物や家畜に吸収・蓄積され、やがて人間の所へと届く事になる。

もちろん、仮に投入された養分の一部は土壌深く浸透したり、川や海へ流れ出る余剰分も幾らか存在するので、まるっきり全てが人間によって消費される訳では無いだろう。

だが、これらは基本的にピンポイントで生産対象へと与えられるのが通常。
むしろ、人間の方が消費する絶対量が多いぶん、大部分は体内に吸収されて行くだろうし、代謝によって排出される分量は相当量に上るものと考えられる。



だが、最終的に人間の所で消費されたはいいが、ここで冒頭の「生ゴミ問題」が出現する事となる。



そう、この現代では、それら「集められた栄養分」を基にした生産物より発生した残骸が、まるっきり何処にも戻る事無く「寸断」されている。
先で貝塚を例に取った様に、過去の世界であれば身近な場所へ埋められていたか撒かれる事で循環していたのが、現在は大部分が焼却され失われている。

また更に、人体からの排泄物も基本的に全て下水道から浄水場に流れているので、結果として「何処にも還元されていない」。
即ち、一方通行で消費していると言う事実に突き当たるのだ。

ある意味、ここまで「取ったら取りっぱなしの生物」は現代人以外に居ないのではなかろうか。



となれば、発生した残骸にしろ排泄物にしろ、何らかの方法で自然界に還元した方が良さそうにも思えるが、事はそう単純には行かない。


むしろ無制限に自然界へ放ってしまえば、逆に養分のバランスが失われかねず、下手をすると環境を悪化させたり公害に発展するパターンも存在する。


それを踏まえ、ここから考えられるリスクなどを次回に続けてみましょう。




では、また、CUL。