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この世に生ゴミなど存在せず、本来なら全て自然界に還元していないとバランスが合わなくなってしまう話 後編「起こりうるリスクと考えられる解決策」

さて、前回は生ゴミを有効活用する為の理由を解説するにあたり、この現代で何故、社会問題化するまでに至ったのか。


その構図を、過去の時代にまで遡りつつ言及して参りました。
culrides.hatenablog.com



して今回は後編として、そこから起こりうるリスクとは何なのか。
どうすれば、それを解決にまで導けるのか。


いま考えられる方法論を、様々な角度から考察してみましょう。

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●人間が集めた資源が多すぎて自然に戻せない●

前編でも記した通り、大量に集めた資源を使った後には相応量の副産物がつきもの。

その「人間生活で出た残骸に含まれる養分」を自然界に戻す事で思わぬ公害を引き起こした事例は、過去に様々なパターンで経験済みである。



この人間生活と言うカテゴリーで発生した身近な例としては、高度成長の頃に「各家庭で米の磨ぎ汁を河川に流したら、水中のチッ素とリン等の有機物が増え過ぎて赤潮を招いた」等の現象が該当する。


何故そんな事が起きたかと言えば、人口が一気に増加し、食料を大量に消費し始め、それらの残骸に含まれる養分(有機物)が一斉に河川へと排出されたから。

本来ならば、それら有機物は植物性プランクトンの栄養源となり、更に大きな生物に食べられる事で分散して行くのだが、これが近代になり一時の流入量が多過ぎて、いわば自然界の分解能力では追い付かずキャパオーバーを起こした訳だ。

冷静に考えれば、「それまでに存在しなかったほどの量」が流入するのだから当たり前の話である。
そういった過剰な富栄養化や汚染を防ぐ意味で、これまでに下水道や浄水場を整備してきた経緯があり、近年は随分と水質改善された場所も多い。


無論、河川の汚染や海の富栄養化を招く要因は多様である。
その他にも、この食料生産の為に撒かれた肥料の余剰分も含まれていると言うし、また洗剤や工業排水なども絡んでいるので、必ずしも米の磨ぎ汁や生ゴミだけが問題なのでは無い。

ただし、これら要因のいずれも人間生活に由来する事だけは共通しており、全て合算する形になったが故に被害が大きくなったとも言えるだろう。
その意味では、もし要因の一つでも流入量が少なくなっていたならば、また違う経過を辿っていたのかも知れない。



こういった事例が実際に存在する様に、有機物を一気に戻してしまうと別のリスクを引き起こしかねず、単に「水に流せば良い」などと安易な手段で済む話ではない事がお分かり頂けるはず。

そう考えると既に、だいぶ以前から、もはや人間が集めた資源が多すぎて、そもそも戻したくても戻しようが無い状況に陥っていた事にもなる。
特に、都市部などは「局所的に繁栄」した事もあって、環境への流入量が急激に上昇するのは必然であり、慢性的なキャパオーバー状態なのだろう。


そういった場所では山林や田畑の面積が少ない為、余計に行き場を失う構造となっているので、なおさら「何処へ循環させられるか」が問題となる。

つまり、いくらコンポストなどで生ゴミを堆肥化させたところで使える場が殆ど無いため、利用するには何処か「別の場所へと分散」させる必要性も出てくるのだ。



だとすれば、人口も資源の消費量も多い地域ほど適切に還元できる環境が反比例に減少するなど、何だか皮肉な話である。

果たして、この様な片道一方通行で消費し続ける状況で、先々まで持つものなのだろうか?


●資源が元に戻らないまま消費だけ続いた先に●

もはや言うまでも無く、この一方的な資源の収集と消費が続けば、何処かしら皺寄せが来るのは確実。
と言うか、既に何年も昔から症状が顕れているのが現実である。


それを証明する一例として、どこか広大な地域一帯に広がる大規模農場で穀物を育てる場合、それ相応の「水」も必要になる。

ただし、これが近隣の河川などから引けるならば供給量は安定するだろうが、その土地柄や気象条件によっては雨量が少なかったり、また水源から遠い場所などでは安定的な供給が難しい事もある。
あるいは、下流域への影響を軽減するため取水制限を設けるなどで、必ずしも取り放題と言う訳には行かない。



それを解決する手段として、農地の地中から地下水を汲み上げるパターンがある。
それをスプリンクラーやシャワーの様な装置で、一斉に畑へ散水する映像をご覧になった方もいる事だろう。



しかし、実の所この手法は大きなデメリットと隣あわせにあり、数年も使えば枯れてしまう事例が続発してしまい、作付けが不可能となった場所も存在する。
また、地下水の水圧や体積が失われる事で地盤沈下を起こす例なども、度々ニュースで報道されるところ。


考えれば当然だが、雨水が浸透しようが山肌から潜り込んだ伏流水であろうが、地下水脈の「流入量」や「貯水量」には限界があり、そこから無制限に取水を続ければ回復に時間を要するに決まっている。
しかも、「本来ならあったものが無くなる」事で、その地下水による湿度を基に生存していた既存の植物や生物さえ生存が脅かされてしまうだろう。

大体、その地下水も元はと言えば大規模農法の為に存在していたのでは無く、有り体に言えば「その土地に関連する生物」が「ある分だけ」で恩恵に与っていただけの話であり、そもそも全部吸い出される事を前提に作られてなどいないのだ。



ちなみに、「家畜に与える飼料」を輸入している場合、その飼料となる「穀物を作る為の水分」も含めて輸入量にカウントされる場合がある。

これは暗に「おたくはウチの資源をこんだけ使ったよ」と言われるに等しい概念であるが、上記の現象を拡大解釈してみれば身近なあらゆる所で、他にも鉱物や木材などでも似た様な構造が繰り広げられていたりする。



つまり言ってしまえば、もはや証明するまでもなく、この「資源を一方通行で消費すると土地が荒廃する」現象は、規模の大小や素材を問わず至る所で起きている。

前編では、これらが「局所的に発生する」と記したが、要するに「美味しいスポット」から集中的に資源が持ち出される事で、そこから本当に無くなる場合すらあるのだ。

そればかりか、最終的には廃棄されるだけで何処にも戻る事は無いのだから、まさに悪循環である。


しかも、それがこの現代社会を支える基本構造を成しているが故に、誰にも歯止めが効かず行く所まで行かざるを得ない状況に陥っている。

そして、それらを「外」に持ち出し続ける事で更に拡大しかねないからこそ、本来であれば無制限に取り尽くさない様に、使い切らない程度に抑制されていないと、様々な意味でバランスが崩れてしまう。

それは物理的な不足のほか、「持ち出す側」と「持ち出された側」での感情的な軋轢や摩擦も含めて、である。



はてさて、こんな有様で人間は何時まで大丈夫でいられるだろうか?

何だか状況を整理するほどに、希望が薄れていく感じがしないでもない。

果たして、これに解決策など存在するのだろうか?



そんな中でも考えられるアイデアを、次の項目にて立案してみましょう。


●集めた分を原資に土地の中で循環させてみる●

さて、これら収集された資源より発生した残骸、この記事で言う生ゴミを適切に有効活用するには、どうすれば良いのかと言う話になるが、その解決策も既に幾つかの試みがなされていたりする。


その代表例としては、「バイオマス発電」が知られる所。
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これは間伐材を始めとした木材を燃やしたり、有機物を発酵させてガスを発生させる事で、電力のエネルギー源に変換されると言うもの。
また、これらは基本的に「既存の資源が原資」となる為、余計な炭素を使わない(とされている)との観点から、カーボンニュートラルカーボンオフセットとも呼ばれている。

これに纏わるデメリットも様々に言われてはいるが、少なくとも「廃棄物を最大限まで利活用する」との意味では有効な手段に違いない。


更に近年は、いわゆる排泄物を原料にエネルギーへと変換する研究も進んでおり、既に「下水汚泥」が使われた発電も行われている。

その具体的な方法は長くなるので端折るが、確かに、人間でも日々排出される多量のアレを資源として活かせれば「全体的な自給率」は向上するし、最終的に使いきった後の残骸だけ焼却処理する方が理に適っている。

いずれも、今はメインストリームならずとも、いずれ時間を追う毎に効率化がなされて行く事にもなるのだろう。



しかしながら、前編でも記した様に、この生ゴミは根元的な意味で「食料」に還元が可能である。


基本的には土に埋めるだけでも分解されるのだし、ほぼ加工せずに再利用が出来る以上、本来ならば「養分を循環させる」事の方が最も優先順位が高いはずだ。

特に、ゴミの削減自体が目標化されつつある昨今、地域や自治体によっては処理場で堆肥化の専用設備を設けている所もある。
これはつまり、生ゴミなどを再利用するにあたっては、「その為のインフラ」を整えられるし、「それが可能」である事も意味している。

むしろ、コストの比率で言えば、別のエネルギーへ加工したり変換するためにも設備費や電気代が必要な点からして、堆肥化の方が安上がりだろうとも思われる。



その意味で個人的には、どちらかと言えばバイオマス発電などは「最後」に来る手段なのではないかと考えている。

然るに、「生ゴミは肥料」に、そして「排泄物は燃料に」と言った使い分けによって、更なる適正化がなされるのではなかろうか。
とにもかくにも、先ずは「外部から集められた養分」を捨てる事なく、極力あます所なく「回収」しておきたいのである 。



とは言え、冒頭の項目でも記した様に、仮にコンポストを各家庭に設置出来たとしても、集合住宅や住宅地が密集する都市部などでは、「資源の消費量に反比例して循環させる場が無くなる」と言う問題が立ちはだかる。

この構造をクリアしない限り、結局は「使い切れなかったら焼却」と言う事になりかねず元の木阿弥、それこそ設備投資した意味すら無くなってしまうだろう。



そこで一先ず解決策としては、家庭内で発生した生ゴミから作られた堆肥を「外部に下取り」したり、その量に応じて何か他の野菜などと「物々交換」するシステムが考えられる。


ただし補足として、現状、「肥料の販売」は県知事への届け出が法令で義務付けられている。

これは内容成分による健康被害を防止する為の措置だそうで、確かに要らぬ不純物が混入している場合、作物どころか人体にまでダメージを与えてしまう可能性がある。
実際、一般販売されている肥料には成分表示が記されており、明確な品質管理基準が定められている事が伺える。
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従って、無許可での個人売買は肥料取締法によって禁止されているので、注意されたし。



もっとも、上記したシステムが確立されたとて、「どうやって交換するのだ」という問題が立ちはだかる。
何処にも吐き出せないままでは、溜まって行く一方になってしまうだろう。


これについては、例えばチリ紙回収の要領で、定期的な巡回がてらトイレットペーパーと交換するみたいな。
また、スーパーやホームセンターなどで回収日を設けて、園芸や食品メーカーなどに引き取ってもらう代わりに、新鮮野菜や草木の苗などと交換とか。

あるいは、自治体のイベントとバーターにして、その量に応じた地域の商品が貰えるなど、利用先とのコネクション構築には様々な手段が考えられる。


それで回収後は、品質検査をして一般に流通させるも良いし、契約農家に引き渡すなどで上手く回って行けば、確かに環境内でサイクルが成立する事になる。

ちなみに以前、店で出た野菜クズ等を堆肥化して配布してくれるスーパーの話題を聞いた事があるので、まるっきり実現不可能なアイデアでは無さそうに思う。



とにかく、それら生ゴミも一種の「利益」を生むものだと言う認識があれば、「扱い方」そのものが変わる可能性は大いにある。

これがもし各家庭や、外食に小売店など事業者の分が合算された場合、そこから回収される養分は膨大なものとなり、再び作物を育てる為の原資として十分な役割りを果たしてくれる事だろう。

となれば、必然的に外部エネルギーへの依存度も減る事になり、また「これまでに集めた分」も一定水準まで相殺されるはずなので、結果として需給バランスの適正化が進む事になるかも知れない。



次に、処理場で堆肥化された場合は物量が多く、その利用先の規模や輸送コストの問題が出てくる。


この場合、処理場の近隣地域に位置する農園などへ優先的に配布する方法があり、やはり既に実施している施設もあると言う。
また、自治体によっては堆肥を無料配布している所もあり、欲しい客が自身で持ち帰るシステムを採用していたりする。

なので、もし今後、生ゴミの処理スピードが向上し今以上の在庫を抱える事になった場合、そういった施設が対外的にアピールしたりマーケティングする事で需要を掘り起す方法が考えられる。

例えば、モニターキャンペーンみたいな形で利用者アンケートを取ってみたり、そこから「あそこの肥料マジイケてる」などと口コミで広がれば、顧客も増えて幾らかコストも浮くだろうし、安定した供給にも繋がってくる。


当然ながら、その利用先が農家ならば、規模が広いほど必要な肥料が多くなるので、そういった然るべき場へ運ばれる方が効率的なのは間違いない。
それこそ、「野菜や家畜から出た残骸」→「残骸を堆肥化・飼料化」→「堆肥で野菜を栽培・飼料で家畜を育成」のサイクルこそ最も目指したい所。

こうすれば、やはり余計な養分を外部から入手する頻度も減るし、「それ以上」に足さずに済むので環境への負担も大幅に軽減出来るはずだ。



また、これら生ゴミ堆肥の利用先については、過去の記事を参照してみたい。

culrides.hatenablog.com

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上記記事から要点だけ抜粋すると、この現代社会の中には「本当は使えるけど使っていない場所が相当数ある」と言う話になる。


この点から考えてみるに、実は都市部であろうが住宅街であろうが、ほんの空いたスペースでも作物や果樹を育てられる事を意味している。
それは例えば、学校や介護施設などの庭先でも良いし、どこかビルの屋上や植込みでも、公園でもグリーンベルトでも、実際は何処でも良い。

つまり、細かな場所ながら、それらが点々とスポット的に存在する事で、「養分を循環させられる場」も増やせる可能性がある。

そういった場と連携する形で堆肥を分散出来れば、適切に循環され易くなるし、ひいては食料自給率も上がると言う寸法である。



無論、上記の手段を完全な解決策とするには足らないだろうし、様々なデメリットが発生する事も念頭に置く必要がある。


仮に至るところで作物や果樹が育ったとしても、今度はそれを狙ってカラスやネズミなどの野生鳥獣が集まって荒らされる等の被害が発生してしまう。
その防除にコストや手間がかかる点は否めず、むしろそれを忌諱しているからこそ、都市部や住宅街での栽培が避けられている点は否めない。

この点については、必然的に土地の所有権を持つ側や管理者に対策を委ねざるを得ない部分があり、場合によっては防護ネットなどのアイテムを設置するシーンもある事だろう。


従って、ある程度「やる気」の人が管理を担当する流れが予想されるが、むしろそう言った方ならば様々な解決策を閃く確率も高いのではないかと思われる。

その一例として、タカなど「猛禽類の鳴き声」を録音した音声を流す方法が知られる所だが、他にも探せば効果的な手段は存在するものと考えられるし、複合的にアイデアを組み合わせれば、防除のコストも抑えられるはず。

まぁ、これらについて現状では希望的観測に過ぎないので、そこは思い付き先行と言う事で。



ちなみに、これが公園など「公共スペース」に相当する場所で実施される場合、誰が管理するであるとか、収穫物の配分などを検討しておく必要もあるし、中には勝手に採られてしまうシーンさえあるはずだ。

こうなると、「何の為に育ててるのか解らない」と言う事にもなりかねず、管理者のモチベーションにも影響するだろう。


この場合における対応としては、街路樹と同じく一種の公共財の様な形で管理しつつも、半ば「持って行ってOK」くらいのノリで育てられる果樹等が適しているものと考えられる。


これには例えば、公園やグリーンベルトでミカン等の柑橘類や、ビワ、梅などを育てておき、実ったら自由に採ったり出来るとか。

あるいは、あまり市場価値は高くないが病害虫に強い品種であるとか、昔ながらの固定品種に古代種などであれば、今ほど味のインパクトも無いので採られる確率は低くなるだろうし、ついでに、一般的な農園では扱わなくなった果樹の「種の保存」を兼ねる事も出来る。

こうすれば、栽培に手間のかかる野菜より放置プレイで済むし、勝手に採られた所で誰のものでも無いので困る事も殆ど無い。
更に、観葉植物などと一緒に植栽する事で、処理場から出た堆肥の受け入れ先となり、しかも「景観+収穫」の一石二鳥で楽しむ事も可能になる。



いずれのパターンにせよ、時間と共に解決策が導かれる事も多いので、先ずは試験的に始めるのはアリかなと。

何より「やらないよりはマシ」であるのも確かで、せっかく堆肥化を推進したとて受け入れ先や使える場所が無いのでは、いつまで経っても生ゴミ問題は燻ったままであろう。


個人的には、上記した案による「デメリットで失われるもの」よりも「メリットで得られるもの」の方が遥かに大きいものと考えている。
事実、それは過去の社会において各地の各所に農地や果樹園が点在し、地域内の自給率も高かった点でも証明されるところ。

かつては、そういった所で育てていた果物や野菜がお裾分けされるのは普通の事だったし、その量も多かったですからね。
それが現代になり聞く機会が減ったと言う事は、それだけ「育てる場所」自体が減った事を意味する訳で。



つまり、この項目で話している解決策とは一種のルーツ回帰の様な話でもあり、表面上のアプローチが変わっただけで実際の中身は昔と同じ。
単に、育てる場が多ければ堆肥を使える場も多くなるだけの事である。

そういった温故知新の中に、一貫してゴミを削減する本質的な構造とアイデアが隠されているのではないか。


と言う話なのであります。


🌑問題の解決には時間を要する🌑

さて、長々と「生ゴミはゴミじゃない理由」を語って参りましたが、如何に思われたでしょうか。


一応お断りしておきますと、この記事は現代農法や廃棄物処理の取り組みを否定しようなどと言う話では無く、一連の現象に纏わる因果関係を紐解きながら、「何故そうなって、どうしたら良いのか」を解説する事が主題であります。

現在までに行われている方法も、「その時点でのベスト」を選択して来ただけの事であり、そこで問題に直面すれば検証が行われ、時々でアプローチの形が変化するもの。
まず完全無欠のプランニングなど存在しない訳で、大抵の出来事はデメリットが隣あわせにあるし、この記事にある解決策だって必ずしも全て正しいとは限らないでしょう。

それこそ、いきなり「今やってる方法を全部止めます」などと言い出したら、経済のみならず人命にまで甚大な影響を及ぼしかねず、いくら自給自足していても「その今」を基に生活が成り立っている以上は限度と言うものがある。
何をするにしても物事には段階が必要です。


ただし残念ながら、今の人間生活は便利過ぎるあまり、何かと「必要なモノ」が多くなりがちなのも事実。
その規模を維持する前提に立てば、「副産物の処理」に課題は残り続けるし、それでも社会が継続する限り、まだ暫くは「別の場所から持ち出された資源」に頼らざるを得ない状況が予想されます。

だがもし、それが何かしらの要因で供給がストップしてしまえば、いずれどこかで「足りなくなる」のが自明の理。
この事は、近年の災害や昨今のコロナ騒動で散々思い知らされた部分でしょう。

それはまさに、この現代社会とは「発展を取れば不足する」し、かと言って「縮小すれば貧する」の矛盾で常に板挟み状態なのだ。



あえて言ってしまえば、この現状を維持するにも、あるいは縮小しようにも、どのルートを辿るにせよ、それに伴う副作用や反動の痛みを負わざるを得ず、今持っている中から何かを失う事が避けられない情勢である様に思えてならないのが率直な感想。

その意味では、本当に解決するとしても「やるなら早めにやっといた方が良い」でしょうし、そうしない事には何も始まらないのも事実。

何せよ反動を極力抑えたいのならば、これまで沢山集めて来たぶん、出来るだけ戻す工夫も必要なんじゃないかなと。



はてさて、いつになれば生ゴミが有効な資源となり活用されて行くのか。


と言うより、これが過去の世界ならば意識せずとも自然に回っていたものが、いつしか「わざわざ理屈っぽく言わないと伝わらなくなった」し、「いちいちシステマチックに考えないと元に戻せなくなった」のだとすれば、ここまで人間は随分と遠回りして色々と失って来たのだなぁと、しみじみ思い至らずにはいられない。


その意味でゴミ問題とは、時代の発展と引き換えに生まれざるを得なかった、いわば「社会の澱(おり)」の様なものなのかも知れません。




では、また、CUL。