CULrides カルライズ

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食べ蒔き作物プロジェクト報告書 1月上旬~中旬の様子

遅ればせながら、明けましておめでとう御座います。


マイペースな更新頻度ながら、当ブログも5年目を迎えるに相成りました。
これまで通りジャンルレスかつクロスオーバー的に、様々な話題を記事にして行けたら良いなぁと思っておりますので、お気の向いた際にでも御覧頂けましたら幸いです。

ともあれ、アクセス数が一向に伸びていない過疎地みたいなブログですが、それでもお越し下さる皆様へ深く感謝申し上げる次第であります。

それでは、今年も宜しくお願い致します。



さて、本年度の一発目となります今回は、昨年度より展開している「食べ蒔き作物プロジェクト」。

その報告書となります。


一連の詳細な経緯は下記のリンクより辿って頂くとして、アレコレすったもんだありつつ、何だかんだで年を跨ぐに至りました。

🌑食べ蒔き作物プロジェクト報告書🌑

culrides.hatenablog.com



その過程で最後に残ったのが、今回の記事にて記すトマト達。

無論、これまで当ブログを訪れていらっしゃる諸兄におかれましては、既に内容をご存じの事と思います。
初見の皆様も是非、併せて過去記事をご参照下されば、より臨場感が伝わり易くなるはず。

いずれもメチャクチャ長文ですが、手前ミソながら濃厚なウンチクたっぷりで暇つぶしに最適かと思われます。


そんな訳で、新年を迎えるにあたり、果たして如何なる状況となっていたのか。

早速、記して参りましょう。



🌑1月上旬~下旬の様子🌑

先ず最初に言ってしまうと、全くもって芳しくない状況にあるのが実情。

何故なら、昨年12月末の最期にアップした前回で触れた通り、急激に「枯れ」と「落果」が頻発する状況が続いていたからです。

12月中旬~下旬の様子

culrides.hatenablog.com


そして、その後も症状は日を追う毎に進行。
更に年末に入るなり、今度は強烈な寒波が列島に南下。

また一気に夜間の気温が下がる事となり、都心部でも概ね1℃台から場所によりマイナス表示になるなど、まさに本格的な冬将軍の到来を予感させる気候へと変貌を遂げたのであった。


それを経た1月のド頭。

一連の怒涛の連鎖により、鈴なりだった果実は未熟な状態のまま、何をしなくとも次々に落果。

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枝葉もカサカサに萎れ、やがて枯れてしまう事態に。

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それでも、幾つかの株と果実が、何とかギリギリ生育を維持している様子ではありました。

これらの原因については、やはり前回12月の時点で、ネットから得た症状に関する情報と当プロジェクトの状況証拠を照らし合わせた結果。


「外気温が寒すぎる」と、「株が体力の限界を迎えた」


の2点に結論付けます。


かくして明けた2019年度ですが、明けた段階では辛うじてトマト達は生き残ったものの、落果は更に加速。
比較的に果房の保持力が高いと思われた「普通のトマト」も、次々にポロリ。

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遂には、現状で残された果房にも枯れが進行。

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何とか保持されている果実も、いずれ落ちるのは時間の問題。

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もはや落果した果実を集めればキリが無く、本来ならこれらも成熟して収穫出来た可能性があるだけに、切なきことやる方無しである。


ちなみに、上の画像では判り難いですが、赤く成熟している様に見える未熟果については野鳥に突っつかれてボロボロの状態。

これまで殆ど野鳥に悪戯されていなかったけど、いよいよ餌が少なくなる時期になったせいか、似たような食害の痕がチラホラある。


この食害で興味深かったのが、未熟果の中で「最も成熟が進んだ果実」だけを食べていた事。

恐らく鳥たちも、まるっきり青い未熟果はマズくて食べたくないのだろう。
腹が減るに仕方無く、消去法で一番マシなモノを選んでいただけなのかも知れない。
実際、大半は完食されておらず、少し噛る程度で放置されている果実が殆どであった。

まぁ、大半が未熟で収穫せずにいたモノなので、それでも腹が満たされるなら構わないんだけど。


枝葉については単に萎れているのでは無く、完全に乾燥しながら枯れている。

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背景がゴチャついて判り難いが、葉は青いまま枯れており、枝や茎も水分が抜けている様な状況。
それは全ての株の枝葉に及び、例外が無い。

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それらの中で、全ての果実が落果し、株全体が枯れきった個体を見てみる。

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色味や太さ(厚み)を残したまま枯れている様子は、何となくドライフラワーっぽい質感。
茶色く枯葉になっている箇所もあるが、大部分は青いままなので、本当に「そのまま水分が抜けた」との表現がシックリくる。

この当時、昨年度の年末までに降った雨が年明け以降も乾かずにいたので、土壌の水分は十分に保たれており、特に水やりはせずにいた。
すなわち、水不足で乾いたり枯れてしまった訳では無いのだ。


この状況からして予想は正しかったと言え、流石にこの低温には抗えないのだろう。
ハッキリと言えば、生命体としては既に命が尽きていると判断すべきなのは間違いない。


そして、中旬に差し掛かる辺りになると、ほぼ全ての株の根回りも水分が抜けた様に枯れてしまう。

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当然、先端部はクタクタに撓垂れており、完全終了の状態。

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当然、ポロリは止まらず、地表には無数の未熟果が。

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しかしながら実は、この段階にあっても、いまだ果房には幾つかの果実が残されており、ギリギリ保持されている。

株は枯れ果てても、果実だけは腐らない様に保ち、そして成熟させられる限界まで粘り続ける。
おまけに、種子は長期的な保存も可能。
子孫を残す点において、植物は実に理に適った仕組みを備えていると言えよう。

普通の生物だと、このまま共倒れしてしまう事が多いですからね。


しかし、この期に及んでは、もはや赤く成熟する事は無いに違いない。
ここまでの状況から言って、当プロジェクトの終了は目前である。

こうなると、そろそろ抜き取りも視野に入れねばならないが、意地のクソ粘りをするかどうかも判断が難しい所。

だが結局、どうこうした所で好転する訳が無く、もう出来る事は何も残されていないのが現実なのであります。


さて、今回の一連の現象は、いわゆる「霜枯れ」の状態ではないかと考えられる。

実際、地面には霜柱がチラホラ発生するほどの低温であり、こうなっては最早、雑草マルチによる保温も意味を為さないであろう。

イメージ 14


この霜枯れの主因について推察するに、恐らくは土壌の水分が冷却され凝固し、根への浸透力が低下。
また、根元が冷える事で株の生命力自体も低下する。

これらの合わせ技により、結果として根から吸水出来なくなり、枝葉が乾いてしまうのだと考えられる。


ましてや、深夜から朝方にかけて霜が発生した場合。
水分と養分が凍ってしまえば、午前中は殆ど吸収出来なくなる訳で、必然的に「補給サイクル」は更に短くなってしまう事になる。


この現象を人で例えるならば、「真冬の野外でシャーベットをストローで飲み続ける」様なもの。
しかも、食料はコレだけ。


これが如何にハードなシチュエーションかは想像に難くありません。


トマトの霜枯れについて更に検索してみると、どの方の情報でも概ね年末から1月にかけて発生する様子が伺え、まさに当プロジェクトの状況とも符合する。

一連の傾向としては、夜間の気温が10℃台に近付くにつれ「落果と枝葉の萎れ」が発生し始め、5℃に達する辺りで本格化。
それを更に下回る事で、遂に「霜枯れ」でトドメを刺されるといった印象。


とどのつまり、昨年度の12月上旬~中旬以降からは、既に生育限界をとうに越えている状態。

この事から当プロジェクトを参照にして、本来の意味での生育限界が11月中旬から末までだと仮定した場合。

果実の成熟から収穫までの期間における夜間の気温は、下がっても15℃前後ほどに保たれていなけば厳しいと言えそうである。


当たり前の話だけど、夏野菜であるトマトは暖かい気候こそが生育における大前提。
いくら頑張ったとしても、晩秋までが露地栽培での限界点と言う事になるのだろう。


でもって、「霜枯れ トマト」で検索すると、何故か真っ先に宮沢賢治の詩が表示される。


菜園や農家の情報より、詩が優先して大量にヒットするのが妙に興味深いと言えなくもなく。
何にせよタイムリーな話題ですし、せっかくの機会ですので、一節をご紹介しておきましょう。


[霜枯れのトマトの気根] 宮沢賢治

霜枯れのトマトの気根
その熟れぬ青き実をとり
手に裂かばさびしきにほひ
ほのぼのとそらにのぼりて
翔け行くは二価アルコホール
落ちくるは黒雲のひら


なるほど、こんな詩があったんですねぇ。

個人的に詩を読む習慣が無いので、正直どう解釈するかは解りかねる訳ですが(紹介しておいてソレかよ)。


しかし多分、恐らくは、彼の出生地である東北の寒空の下にて。

霜が降りて枯れているはずのトマトに生っている未熟果に触れてみたら、その青っぽい香りに侘しさを感じると同時に、まるで果実を凍らせない為の成分が空気中を漂っているかの様な、ささやかながら確かな生命力を感じたのでしょう。
(※二価アルコールとは、どうやら不凍液に使われる物質らしいです)

しかし反対に、黒雲から落ちたのは雪で、これから訪れる更に厳しい気候の不穏さとの対比を描いたではないだろうか。

つまり、愛しさと切なさと心強さを感じたと言う事なのかも知れません。

これぞまさしく激エモの極みです。


所で最近、あちこちで「エモい」って表現を聞く様になったけど、今から15年以上前のハードコア、パンク周辺の人達ではよく使ってた言葉だよね。
特に「エモコア」とか「スクリーモ」界隈では。
今度、この話も記事にしてみようかしら。


それはさて置き、実際に自分でトマトを育て、そして厳冬期を迎えるに、この詩に内包されているイメージが何となく解る様な気もします。
よくよく振り替えると、最も栽培期間が長かったし、色々と試行錯誤を繰り返した分だけ思い入れもありますからねぇ。


そんなかつての詩人に想いを馳せつつ、当プロジェクトもいよいよ大詰め。

もしかして最終回になるや否や、次回の報告書に続きます。


では、また、CUL。