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超仮説シリーズ・発達障害が存在する真相 第9回「発達障害とは社会を映す鏡であり反動である」

これまでに得られた経験と知見を基に、この現代に「当事者が存在する理由」の真相を解き明かすべく迫るシリーズ、第9回。

🌑LGBTが存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com

🌑発達障害が存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com


今回は「生きづらさを生み出している背景」について、話を展開して参りましょう。


🌑発達障害とは社会を映す鏡であり反動である🌑

先ず前提として、ここまでの記述でハッキリさせておきたい要点が一つ。


それは仮に発達障害が先祖返りや遺伝子のスイッチ説に因るものであろうと何であろうと、いずれも「我々の生息環境に対応する形」で発生した現象である事。

これは当然、社会情勢や生活様式の全般を含めた意味で、である。


この様に表現するのも憚れるが、社会の進歩と「対極」に発達障害が存在しているのだとすれば、その社会の中にしか解決の糸口は無い事になる。

要するに、社会が高度化・複雑化・平均化するほど「反動」が強まるなら、発達障害の症状もまた同じ経過を辿る事になると考えられるのだ。


その為、他の環境なら生きれるだろうと安直に考えた所で、いきなりアマゾンの原生林やアジアの遊牧民と同じ様な生活を出来るとは考え難く、何処かしら途上国に移住したとてフィットするとも限らないのが現実。

仮に、いくら先住民の社会がシンプルであったとしても、今さら現代人の性質や能力が当時に戻る事は難しいだろうし、下手すると体質や免疫力そのものまで退化している場合も有り得る。
それこそ戻ったとして、いくら優秀であろうと本当に生き残れる人なんて多くは無いだろう。

いや、外の世界にもヒントは沢山あるにはあるが、絶対的な正解かと言えば、そうでもない。
そもそも社会の成り立ちが違うからこそ、その環境に至っている事を忘れてはいけない。

例えば、他国の医療福祉のシステムが良いからと安易に真似するのは短絡的に過ぎないし、また余計な要素が継ぎ足される事で別の副作用、即ち混乱状態を生むリスクともなりうる。

これは病院の処方箋と同じで、効き目の強い薬が重複する場合には厳重な注意が必要となる様に、組み合わせと容量次第ではエライ事になるのである。


いずれにせよ、当事国を中心に発生している現象である以上、その環境内に原因と解決策が隠されているものと捉える必要があるだろう。
これがもし本当に社会問題と言うのならば、その国そのものの在りかたを検証し直し、そこで発達障害となる「一連の流れ」を咀嚼し、解決へと導くのが筋だと思うのだ。

前回までに述べた様に、この社会が「高度化・複雑化・平均化」しているからこそ、その対極である障害もまた「同じ事」が起きていると考えて良い。
それは発達障害の症状が多岐に及ぶ点からも明らかで、そのバリエーションが過去はもっとシンプルにカテゴライズされていた点と比較しても、現代との差異が浮き彫りとなる。

やはり、そうなってしまった本質的な構造や原理を理解しない限り、いつまで経っても解決しないばかりか、ますます混乱ばかりが広がる事になるだろう。


そんな渦中において、僅かに希望があるとすれば、いわゆる障害者雇用の場においてだが、様々な症状に合わせた採用枠や業務形態が用意されつつある事だろうか。

そういった場においては、個々の特性に合わせて役割りが振られ、先ずは「出来る事」を優先するシステムが取られているのだが、個人的には、これこそが「普通の人間らしい姿」であると思う。
もっと言えば、障害うんぬん以前に、通常の雇用形態こそ本来はそう言ったシンプルな業務を中心に据えて、まずは集中出来る環境作りから「再構築」して然るべきだと思っている。


と言うより、現代の生活様式全体を見渡しても、今ほど「アレもコレも理解し全て出来ていて当たり前」な時代は無かった事だろう。

そもそも「業務全部乗せ」に対応出来る「全部揃った優秀な人」を他者にも求め続ける事自体が、極めて贅沢でワガママ過ぎる条件である。
それはまるで、「寿司は国産本マグロの大トロしか認めない」などと宣う輩と、本質的なメンタリティは全く同じだ。

要は、出来ない人をワガママであるとか不器用であると評した所で、その逆もまた然り。
これは応えられない側が全て悪いのでは無く、要求する側が求め過ぎなだけで関係性が逆なのである。


とどのつまる所、この生きづらさの根元には、人間本来のキャパシティを遥かに越える「要求の先鋭化」であるとか「理想の肥大化」が存在している。

それが社会や人々の共通認識を占めるほどに「人を認められず許せなく」なるにつれ、やがて居場所そのものが狭まると言う構造を先ずは理解する必要がある。

もっと言えば、他者に対して「私の要求に従え」であるとか、「要求通りに出来ないと認めない」であるとか、「要求を満たさないなら必要ない」などと「要求し続けた引き換えに失った」のが子孫の、いや自分自身の「生きれる場所」なのだ。


これは何も発達障害に限らず、現代で誰も彼も妙に疲弊しているのは、学歴も結婚も子育ても人間関係も食事も家事も何もかも全てひっくるめて、「要求し過ぎ」の反動が顕れた形である。

あえてキツイ表現をしてしまうなら、いわば「贅沢病」の成の果てとして、その要求が大きく増えるほどに反動が比例して強まる事になり、先々で発達障害とされてしまう当事者の人口も、その症例の数も増えてしまうのだろう。

前回までの記述に倣えば、それら「要求の応酬」を停止させる為に、そして種の全体が崩壊するのを防ぐ意味で、「わざと遺伝子が要求に応えなくなった」のだとすれば、やはりリセットスイッチ説にも整合性が取れてくるのである。


しかしながら、これら「要求の増大」は現代に生きる誰もが陥る構造であり、人と人とが交流を続ける上で否定しがたい心理なのも確かである。

それは、この記事を書いている僕とて例外では無く、時に「何とかして欲しい」と思うシーンなど多々である。
だからこそ、常に「自らを検証」する必要があるのだと思い知らされる事ばかりだ。


然るに、この時代が進むにつれ際限なく広がる反動を押さえるには、如何なる方法が有り得るのか。

次回に続けて行きましょう。



では、また、CUL。