CULrides カルライズ

発見と探究そして文化。そんな諸々の話。

超仮説シリーズ・発達障害が存在する真相 第8回「本来なら普通に生きれた可能性がある」

これまでに得られた経験と知見を基に、この現代に「当事者が存在する理由」の真相を解き明かすべく迫るシリーズ第8回。

🌑LGBTが存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com

🌑発達障害が存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com


今回は「発達障害に限らず生きづらい環境」について、話を展開して参りましょう。


🌑本来なら普通に生きれた可能性がある🌑

しかしながら、ここまでの記事を通して話に理解を得られたとしても、やはり当事者としては「要するにビンボークジ引かされたのかよ!ふざけんな!!」であるとか、「それじゃ結局、何も解決してないよ!」と憤られるに仕方の無い所ではあります。

いくら理由を説明したとて、それが直接的に生きづらさの解消となるかは別問題。
何にしろ今の状況をどう過ごして乗り切るか、それがこそが最も重要だと感じる所でもありましょう。


ただ、その気持ちは「非常によく理解出来る」と言うのが正直な話。
何せ、僕自身もその傾向にあると自覚的であるし、それはここまでの長文を読んでいて、うっすらお察し出来る部分であろうとも思います。

故に、ある意味では当事者の一人として記述しているものではありますが、しかし、あくまで客観的かつ俯瞰的に徹していないとフェアに論じれない部分も御座います。
そこをご理解の上、あまり良い心地とならない記述も多かろうとは思いますが、どうか最後までお付き合い願えましたら幸いです。


さて、この項目のキャプションにある通り、これまでの話を総合して行くに、「発達障害と呼ばれる人々も本来なら普通に生きれたのでは無いか?」と言う疑問が沸くはずだ。

と言うより、発達障害なる言葉自体が近年になり社会の表層へと浮上したもので、少なくとも2000年代から以前は話題にすらなっていなかったし、一般層には殆ど知られていない概念であった。
それが現在、誰もが知る認識になっていると言うのは、医療福祉の効果のみならず、それだけ個人の持つ性質や能力が些細な切っ掛けで突出し、目立つ様になって来た証明でもあろう。

あえて言うなら、これが昔なら「変なヤツ」とか「不器用だな」程度に済んでいた話が、いつの間にか「それは異常だ!これが出来ないし分からないなんておかしい!きっと何かの障害だ!」と強調されやすい状況になっているとも捉えられる。

いや、もはや具体例を挙げずとも、既に「普通の人」ですらそうなっている状況なのは誰しも思い当たる節があるはずだ。


無論、実際の症例には強弱が大きいので、中には確かに生存に困難な状況となっている方もいらっしゃる訳で、それを如何に解決するかは重要な課題である。
これは決して過去が許容的で現代が排他的などと言う話では無く、むしろ過去の方が遥かに生存競争が厳しい世界だったのと比較すれば、現代の方が生前し易い環境であるのは間違いない。

その救済措置としては、例えば医療なら「認知行動療法」の様に、日常生活を基本とした入院だけに頼らない方法であるとか、企業なら「障害者採用」の枠組みが設けられるなど、過去のネガティブな要素はだいぶ払拭されつつあるとは言える。


ただ、昔の方が余計な事に振り回されず、「シンプルに生きれる余地」が大きかったので、これほど話題になる事も無かったのではないかとも思える。

その上で重要なポイントとなるのが、いわば人として「標準」とされる基準値が極度に狭まっている様な感触ではないだろうか。

それは何度も触れてきた通り、些細な性質の凹凸が見えただけで存在が浮くだけでなく、何かしら切っ掛け一つで「標準から疎外されるリスク」をも孕む事になる。
だが個人的に、この枠組みで人を捉えようとし過ぎるあまり、いずれ何か「大事なもの」を見失うのでは無いかと危惧してならない。

その「大事なもの」とは即ち、先代から残されている「生物として必要不可欠なもの」。
それは例えば第2回の方で述べた様に、「変化を察知する」、「興味を掘り下げる」、「豊富な運動量」などである。
超仮説シリーズ・発達障害が存在する真相 第2回「発達障害=先祖返り説」 - CULrides カルライズ


だが、これらは標準的とされる社会では時に「協調性が無い行動」と紙一重になりがちで、実際の生活や仕事で活かせるシーンは殆ど無いのが実情かと思われる。
と言うより、あっても気にせず過ごしているか、「それは気にしなくてよい」と遮られている場合も多い事だろう。

しかし、実はそんな中でも最も大事な要素となるのが、それら能力から得られた「経験値=フィードバック」であろうと考えている。
むしろ、このフィードバックがあったからこそ、人間は今まで絶滅せずに繁栄してきたとさえ言える。

つまり、これらの能力が発達障害の当事者に強く反映されているのだとすれば、彼らに起きている「反応」とは生物として重要な意味を持っている可能性が有り得る。

言い換えれば、何かしら危機を知らせる「シグナル」かも知れないのだ。


これは発達障害の緒症状と照らし合わせると、より理解が早くなる。

例えば仮に、もし症状に強弱があって、それが突出して社会生活にも支障を来してしまうほどである場合、その根本には「そうならざるを得なかっただけの理由」がある事になるはすだ。

より具体的に言えば、「自閉症」の様な症状が強い場合、それは親世代に至るどこかで「そうしないと先々の世代や種全体に何かしら不都合」が生じるであろう変化を遺伝子が感知し、わざと反対の「コミュニケーションを難しくさせる方」へと子孫に入力したケースが有り得る。

その不都合とは極端に言えば、「これ以上群れがスムーズに拡大すると互いに競合して潰しあいになる」などの現象が該当。
それを防ぐ意味で、上記の特性を発現させる事により「人の行動を一定の縄張り内に留めておく」効果があるものと考えられる。


この様に、現代で発達障害や各々のパーソナリティが殊更に際立つのは、単に社会が平均化しただけが理由では無い。

早い速度で進化していた所へ、その先代が得たフィードバックによって危機を察知しブレーキをかけた事により、今度は急停止や逆戻りする作用が働いたせいで「反動」が大きく返ってしまい、それが「症状の強さ」にも反映されている形なのだ。

これは車で言う、まさに「ガックンブレーキ」の様なもの。
乗ってる自分もビックリなら、その周りの人々も「え、何事!?」となる事に似ている。

いや、もしかするとサイドブレーキを引いて「ドリフト」していて、もはや「どうにも出来ない」ケースすらあるのかも知れない。
そこでコントロール出来るか否かは本人のウデ次第としても、いずれにせよ、だから余計に目立つと言う訳である


故に、これを単に「症状が過敏になっているだけ」とか「わがまま」だと表面上だけを捉えたままでは、いずれ重要なシグナルを見逃す事にもなりかねず、フィードバックとして活かす事すら難しくなるだろう。

個人的な見解としては、そのシグナルの意味を捉え直し、彼らの反応や主張について今一度、そこに至った経緯や理由について検証する必要があるのでは無いかと考えている。
これは「表向きの症状に対処する」と言う話では無く、「何故そうなったか」の根本について洗い出しをしないと、同じ様な混乱が繰り返されるだけで解決しないままとなるからだ。

つまり、「急ブレーキを踏んだのにもワケがある」のである。


その結果を基に、現在の社会もシンプルに、いわば「原点回帰」する事で、誰しもが生きやすい環境を取り戻すタイミングに来ている。

そう思われてならないのだが、どうだろうか。


次回は、「一体何によって環境内に生きづらさが生み出されているのか」について触れて行きましょう。



では、また、CUL。