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超仮説シリーズ・優生思想は無意味 第2回「優生手術を経てからの現代」

これまでに得られた経験と知見を基に、「なぜ優性思想は無意味なのか」を解説すべく迫るシリーズ、第2回。
前回まではコチラ遺伝子 カテゴリーの記事一覧 - CULrides カルライズ


🌑LGBTが存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com

🌑発達障害が存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com


今回は、「過去から現代に至る流れ」を検証して参りましょう。


🌑優生手術を経てからの現代🌑

さて、先ず端的に結論から述べておくと。


「いくら優生思想で人をイジッても、結果的に全てリセットされ元通りになる」


そして。


「優生だけで社会を構成しても、やがて競合を始め資源を食い潰し共食い現象が起きる」


と言う事である。


こう言うと当然、「優秀な遺伝子を残す方が有利に決まってるのに、何故ネガティブな結論になるんだ?」と疑問に思われる方も多い事でしょう。

しかし、それは非常に短絡的で表面的な捉え方だと言わざるを得ません。

そもそも生物の性質や能力とは、遺伝子以外にも生息環境や社会情勢など複合的な要素によって構成されており、「何が優秀で適応しているのか」を一概に断じる事は出来ない。

また仮に、諸々の因子を取り除くと言う意味で優生手術が「短期的」に効果があったとしても、「長期的」には逆効果として顕れるリスクと隣り合わせでもある。
即ち、「手術が施される期間の長短」でも話が全く変わってくるのだ。


ここで一つ考えて頂きたいのが、「過去に優生手術が施されていたのに、何故いまだ精神と身体の疾患が無くならないのか」、についてである。


理屈の上では、いわゆる「先代の原因因子」さえ取り除けば必然的に当事者は減り、結果として「健常者」が優位に子孫を残す流れとなる。
人口の比率としても、それら「優位性のある」人々が大勢を占める事となり、いわゆる自然淘汰が加速していてもおかしくない事になる。

それはつまる所、障害となる遺伝子を抱えた個体は子孫を残せず絶滅し、文字通り優秀な個体だけが生き残る流れとなるはずだ。


しかし、しかしである。

この現代社会では淘汰されるどころか、明らかに当事者が増えつつある状況となっている。
しかも、先進国を中心に、まるで同時多発的に浮上している印象さえ受ける。
それは、かつて優生手術が施され、まさに優秀な人々が生き残るべく、理想的な環境を作っていたはずの国々でさえもだ。

こうした様々な障害・疾患に纏わる具体的な人口推移を記した図表は各々で検索して頂くとして、少なくともここ十数年より過去と比較して話題に上るシーンが圧倒的に増えているし、よもや身近な人物が当事者となってしまう例もザラである。

この体感的な変化については、それなりに年齢を重ねている方であれば誰しも実感する所に違いない。
それこそ、ほんの少し昔であれば当事者は超マイノリティの存在であるがゆえ「全くの他人事」で済まされてしまい、何だか触れてはいけない様な、話題そのものがタブー視される雰囲気でもあった位である。


無論、この変化の要因としては、社会福祉が発達した事で疾患を抱えていても生存し易くなり、それが可視化されやすくなった影響が大きい。
また、過去に比べて医療が発達し、症例そのものの種類も増えているので、更にカウントされる人数が増えているのは間違いない。

あるいは、かつての世界では「隠さねばならない意識」が強かったが為に表へ出ていない人々も相当数いたはずで、それが時代の流れと共に人権意識が高まるにつれ表舞台へと上がれる様になり、より存在が際立つ世になって来ている事だろう。

これらの変化については、LGBT発達障害の記事でも度々触れてきた通りである。


だとしても、過去に優生手術を受けた人々が子孫を残せなかった事実には変わらず、それで本当に当事者の人口が減ったのであれば、現代では話題にすらならなかったはずである。

しかも、何度も言う様に優秀な遺伝子を選別していて、尚且つ適者のみが優位に立てる環境なのであれば、その「狙い通りの人々だけ」が交配して生き残っていなければ辻褄が合わない。
然るに、逆に増加、あるいは一定以上の人口が存在している以上、「そうなっていない」事が明らかとなる。

とどのつまり、いわゆる先代が健常者であったとしても、何かしらの要因により当事者は生まれると言う訳である。


それを踏まえて、あえて現在でも存在する理由を挙げるとすれば、主に以下の3パターンがあるのではないかと考えられる。


a・優生手術が施される前に先代が子孫を残していて、その子供らが成長する頃には廃止となっていた。

b・優生手術が存在していた時代までは「普通」であったので結婚し子孫を残していたが、その後になり年齢を重ねていく内に、あるいは何らかの環境変化により発症してしまった。

c・それまで代々、特に問題無く存続していたが、ある世代を境に突然顕れた。


などである。


上記パターンaならば、単純に「見逃されていた」と言う意味になる。

この優生手術が主に「症状の強い人」を中心に対象としていたのならば、「そうでもない人」が相対化されて後回しとなっていた確率は高い。
また、診察した医師などにより裁量も曖昧だったはずで、その症状の程度がどうあれ「特に必要なし」で済んだ人々もいる事だろう。
これならば、現代において一定数の人口が残る事にも辻褄が合う。

ただし、「優生思想が中心を占める社会」では仕事や結婚に対するハードルが高く、それこそ子孫を残すのは難しいと考えられる為、このパターンが「明確に該当する当事者」の比率は高くなりようがない部分がある。

従って、見逃すとか見逃がさない以前に、必然的に人口は一定以下に留まり続けるものと考えられる。


しかし、ここで重要になるのがパターンbとパターンcである。


パターンbの場合、aを補完する意味もあるが、最も重要なのは「その時点その段階までは普通に生活していた」と言う点である。

それは傍目からも普通の人であり、普通に仕事をしていて所帯を持っている場合もある訳だが、何らかのトリガーが切っ掛けとなり症状が顕れる事となる。

このトリガーとは例えば、年齢を重ねて体力が衰えたり、生活の中で精神的なストレスが増大した。
あるいは、何かしら薬物や酒、ギャンブルなどの誘惑により、生活に問題を来すほど依存してしまった。
はたまた、引っ越しや思わぬ災害などの環境変化が起きた等のシーンが挙げられる。
つまり、普段は全く症状は出ないが、様々な切っ掛けにより発現したパターンである。

故に、平均寿命が短かった過去であれば、まだエネルギーが若く「普通な人」の間に子孫を残していたので、ある意味では症状が出る前に全ての役割りを果たしていたとも言える。
だが、それが現代になり平均寿命が延びた事で、若い内から薄々気付いていても勢いでカバーしているか、又は、だいぶ後になり発現している可能性が浮上するのだ。

これは最近言われる、「グレーゾーンの発達障害」や「大人の発達障害」と共通した原理とも考えられる。


だが、広義的な意味で捉えるならば、これらの因子はかなり広い意味で「誰もが」持っている可能性が高い。

仮に子孫が因子を受け継いでいるとしても、その生活環境などにより症状の強弱には様々な違いが顕れるはずで、それがデメリットとなるかどうかは「その時」になってみないと判らない事も多いだろう。
いや、時と場合によっては、「本当はメリットだった」可能性も否定出来ないはずだ。

この理由については、発達障害の記事にて記したが、次回以降も改めて触れるとしよう。

いずれにせよ、時々の時代背景と社会情勢しだいでも本人のパーソナリティに与える影響や評価の変動幅が大きく変わるので、やはり一概に「因子を持っている」などとして問題化するには無理がある。


そしてパターンcの場合、全くもって「唐突に顕れた」と言う意味になる。


この要因としては、相手の家系から外的に因子が持ち込まれた事が切っ掛けとなり、その相手が優生手術を逃れていたが故に、やがて子孫も発症したであろう可能性は否定出来ない。
実際、この優生手術が明るみに出て婚約を破棄されたり絶縁されてしまった事例が存在するし、そこまで神経を尖らせるだけの経験則があったであろう事も推察される。

しかし、仮に遺伝的に「優位な方」が子孫に反映されるのが生物の進化のセオリーだとして、何故わざわざ「劣性とされる方」が表出するのかと言う話になるし、そもそもどうやって「その相手方の先代」が生き残って来たのかと言う疑問が残る。

しかも、それまでの家系において「優秀な方が遺伝子を残していた」と仮定した場合、それだけ本人の優位性も高いはずで、いわば相手のネガティブ要因もカバー出来そうにも思える。
ましてや、その子供が両親双方の性質を残しているのならば、更に遡ったその両親達の先代達もまた「生き残ってきた個体」と言う事になる。

つまり、仮に障害や疾患となる因子があったとしても、自然淘汰されなかった必然性があったからこそ今があるのだとすれば、実際はどちらも「適応していた」事になるのだ。


概ね以上となる。


これら上記パターンに共通するのは、いずれも「その時点までは普通に生き残っていた人」である事では無いかと思う。

勿論、知能や身体能力など、個々の性質や特性は様々で能力の高低もある。
なので、あくまで人の作り出した社会環境で生きるにあたり、テストなどの「基準点」をもって計った場合などに優劣を決められていたとしても仕方ない部分はあるし、その差や違いもまた生命の原理の一つなのが現実。

だが、それでも、それまでの環境であれば問題無く(苦しい生活ではあったはずだが)過ごせていたからこそ、当事者とされる人々の系譜が存続していた事もまた事実。
またあるいは、「過去の世界」ならば適応していたものが、時代が進むにつれ「不適」となってしまう環境へと変化していった事が関係している場合もある事だろう。

その意味では、これまでの記事に記した様に、社会が高度に発展するにつれ、彼らの「生きれる場所が無くなった」と言う逆説も成り立つのかも知れない。


ただし、仮にその時代、その場所に適応出来ていないからと言って、「その社会環境が本当に正しかったかどうか」は全くの別問題である。

先述の様に、むしろ社会が発展し過ぎて「人に対する評価のハードル」が上がりすぎている側面は否めず、その分だけ「特性の差異が強く相対化」されているだけのパターンも多いはず。
何せ現代よりも衣食住に苦労する時代を先代達は生き残って来たのだから、その当時は「生き残れる環境だった」と言う事になろう。

だとすれば、表向き「社会生活のデメリット」になると思われる様な凹凸の目立つ性質も、実は「必要だったから」発現していると考える事も可能となる。

もっと言えば、むしろ「完全無欠な優秀」であるほど発展を加速させ過ぎて、社会生活における利便性を追求するあまり、やたら無闇に生活環境を弄くり回すなどした結果、逆に「生物本来の能力をスポイルされている側が優位」になっている可能性すら有り得る。

これらの流れを踏まえるに、社会的な立場やパーソナリティはどうあれ、「本来の意味での生命力」と「優生思想で言われる生命力」には、どうやら微妙な乖離がある事が明らかとなってくるのだ。


では何故、優秀な遺伝子を残すため優秀とされるパートナーを選び、あまつさえイジり回してでも生き残って来たのに、いまだ根本的に症状が消えないのか。


次回は、その理由を更に深掘りして行きましょう。



では、また、CUL。