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超仮説シリーズ・優生思想は無意味 最終結論「みんなもちつけ」

これまでに得られた経験と知見を基に、何故「優性思想は無意味なのか」を解説すべく迫るシリーズ、最終回。
前回まではコチラ遺伝子 カテゴリーの記事一覧 - CULrides カルライズ


🌑LGBTが存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com

🌑発達障害が存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com


今回は、「じゃあこの先どうするのか」について検証して参りましょう。


🌑最終結論「みんなもちつけ」🌑

では、前回までを踏まえた上で、そろそろ一連の話について結論を結んで行くとしましょう。


これはLGBT発達障害の記事でも触れた話になるが、先ず究極的に言ってしまうと。


「障害や病気には何か重要な意味があり、本当は存在自体に理由と意義があるのではないのか?」


この様に結論付けられる気がしてならない。

そして、その当事者とは、いわば「媒介」の様な存在として健常者の代わりに何かを伝えているのかも知れない。


ズバリ言ってしまえば、「このままの社会や環境ではマズイ事になる」とか。
あるいは、「今の状況では子孫を残せない」などなど。


そう、本当はそこから何かしらの「メッセージ」を受け取る必要があるのでは無いか。
いずれも答えは一つでは無く、恐らくは其々で違う意味が込められているのであろうし、それを正確に捉えられるか否かは、全て受け取る側のセンス次第。

つまり、この社会や自分達の生活の何処かに、その原因があるから、これ以上どうにもならなくなる前に解決した方が良い。

と言った点で共通している。

それが、これまでのLGBTそして発達障害を含めたシリーズを通して、共通して導き出された答えでもあります。


ただし何故、いまいちハッキリ言い切らないのかと言えば、この答えで断じたり固定化してしまうと、今度は「それが正しい」と偏るあまり、誰かを非難したり断罪したりする事に繋がりなねないから。
それは即ち、一歩間違えれば、これまで当事者の人々を虐げていた側と「逆の意味で」同じ轍を踏んでしまうからである。

しかしながら、そのメッセージや存在意義について冷静に想いを巡らせば、結局は「何故そうであるか」の背景に行き着く事となるはず。
それはつまり、「彼らがいる」のは「これがあったから」と理解する事で「こうすれば良かった」と是正する事も可能になるかも知れないと言う意味でもある。


また同じく、遺伝子の話を長々と綴ったのも、あくまで「単なる要因の一端」でしか無い事を伝える必要があった為である。

それに手を加えれば全てが解決するなどと言う話は有り得ず、全ては環境や社会とのバランス次第。
むしろ「そうしようとする側」にこそ、実は問題の本質が潜んでいるのでは無いかと自ら検証しなければ、他者を断じて良いことにはならないだろう。

これはLGBT発達障害の記事でも触れた事だが、本来なら当事者であれ因子の保持者であれ、実際は本当の意味で自らに合った場所があって、その何かしらを「活かす」事が出来てさえいれば、現代もこんなややこしい事態にはなっていなかった様に思えてならない。
それを、これまで誰も考えていなかったし、気付いていなかっただけの話で、もっと早くに理解していれば解決の道筋も早くに出来ていたのかも知れない。

そして、それは本来なら、「持っている側」が彼らの人生までをも決定する力を持っていた以上、もっと早い段階で手を差し伸べられていたのでは無いかと考えざるを得ない部分もある。

むしろ、今だからこそ「その時」なのでは無いかと思うが、この「流れ」が向かって来てくれるかどうかでも、先々の展開に影響がある所だろう。
勿論、誰しも上手く軌道に乗る方を望む所であるに違いない。


とどのつまる所、優生思想の本質とは人を、否、あらゆるものを「一つの基準」で捉える事であり、それが「正しい」と思い込む事。

その果てに、「他の可能性」をも見失ったまま、ひたすら「一方的な要求」を強いては、その理想に合わないものを「不適」などとレッテル付けする行為と紙一重にあるものとお分かり頂けるのでは無いかと思う。

そして何より、人は自分自身を棚に上げてでも、「他者に優秀さを求めずにいられない」性質であるのも、また哀しき事実。
それが仮に文明水準を引き上げるに寄与したとしても、「私は貴方が進出するように促してあげた」などと思い上がっていたとしても、それは「自分の都合を押し付ける」事と紙一重でもある。

その裏には、秘かに置いていかれてしまった人々の存在があるにも関わらず、それでも無視を貫き発展し続けてしまった代償は、あまりに大きいものとなった。


これも最近よく言われる話であるが、結局、「誰の中にも優生思想が潜んでいる」からこそ、その「傲り」を常に自覚しながら客観的に見つめ直し、検証し続ける必要があるのだろう。


尤も、しかしながら、この現代に至る流れもまた致し方無い部分ではある。

何せ、ここまで社会が発展し、誰しもその恩恵に与っている身である以上、更なる進歩を目指すのは必然。
ましてや、今日の便利な生活を手放そうとは思えないはずで、もはや止めようが無いのが実情でもある。

それは、この記事を書いている僕とて例外では無く、現代文明を基に生活していて、社会で遭遇する様々な事柄に対しての要望も尽きないし、時に誰かと比べ優劣を決めたり人を選りごのみする事を思えば、まったくもって綺麗事ばかり言える立場では無い。
それが変えられていない身である以上、自らも加担している事には変わらないのだ。


しかし、かと言って今さら「過去の栄光」を取り返そうと昔の姿や生活に戻った所で、生命力も勘もスポイルされた人々の殆どは生き延びる力など残されていない可能性すら有り得る。
そうなれば連動して経済も大きく下降する事になり、それこそ社会を保つ事など能わぬものとなろう。

つまり、「いずれのルート」を辿るにせよ、この現代に生きている限り反動は避けられそうもないのが現実なのかも知れない。


ただ、そうまでしてこの記事を綴ったのも、「その正体」が一体何なのかを明らかにする必要があると思うから。
それが「どこから来て」、それで「何が起きて」、やがて「どうなって行くか」を知るか知らないかで対応が変わるだけでなく、より「正確に向き合う」事が出来るのでは無いかと考えているからだ。

従って、事ここへ至るに「進化せよ」と強制するのも間違っているかも知れないし、かと言って進化しなくていいなら何もせず「退化してよい」と言う話でも無い。

何度も言う様に、その進化の「先」にあるデメリットを検証し自省しない事には絶滅の道を辿るかも知れないし、何の手を打たないままでも適応が出来ずジリ貧となるやも知れない。
「じゃあどっちなんだよ」と言う話になるが、このどっちか一方に偏り決め付けるからこそ齟齬が生じるのも確かである。


一つ分かっている事は、いずれの形にせよ、それが「自然と必然性」によって成されていれば、それで良いんじゃないかと言う事。

これは健常者であろうが障害を持っていようが誰であろうが、恐らくは誰しも「何でか知らないけど、そうなっていたし、そうならざるを得なかった」と言う人が殆どであろう以上、哀しいかな受け入れるしか無いのが現実なのかも知れない。

だとしたら、アレじゃないコレじゃないなどと無理矢理に人を弄くり回す前に、先ずその中で本当は何が出来て、何をしたらダメになって、何をしたら良くなるかを検証し直す事から、改めてスタートするのも一つの手だし、本来の意味で軌道修正の一歩になると思う訳です。


とどのつまり、「みんな落ち着いて現状を整理しながら一つ一つ解決しようじゃないか」と。

その先に、目指す「適応」の形があるのかも知れないし。

それがもしかしたら、本当の意味で「進化」と言う事なんじゃないかな、などと思うのです。


🌑あとがき的に🌑

さて、ここまでお読みになって如何思われたでしょうか?

正直、自分で書いておきながらではあるが、この記事の記述が全て正いとは言いませんし、いずれ先々では間違いだったと気付く時もあろう事を思えば、安易に論じれない部分があろう事も確かです。
尤も、その時代や状況次第で結論が変わるのは、学術的分野の話では珍しい事では無いのかも知れません。

しかしながら、この一連を検証する中で、「どうしてもそう考えざるを得ない」部分があるのもまた事実。
重ねて個人的には、これら記事をご覧下さる皆様においても考察を重ねる中で、より良い解決策への「一つの素材」として活かせて貰えるならばと思う次第であります。


ここまで長々と無為な独り言にお付き合い下さり、有り難う御座いました。


うーん、何だか説教臭い記事になってしまったなぁ。
本当はこんな偉そうなクチ聞けるほど大した人じゃないんですけどね。
何だか色々考えていたら、こうなっていた感じです。



では、また、CUL。