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超仮説シリーズ・優生思想は無意味 第11回「優秀に進化するほどプレッシャーが高まる」

これまでに得られた経験と知見を基に、何故「優性思想は無意味なのか」を解説すべく迫るシリーズ、第11回。
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今回は「優秀に進化しても息詰まる環境になるのは何故か」について検証して参りましょう。

🌑優秀に進化するほどプレッシャーが高まる🌑

さて、前回の話を踏まえた上で、先に解答から述べておこう。


いわば現代社会とは、「優生思想の成の果ての姿」と表現出来る状況となっている。

何故なら、この構造を作り上げた果てに訪れた社会情勢はと言えば、「優秀な人」を選別しながら進歩して来たはずなのに、何故か時代が進むほど人的、環境的、資源的にも「反比例に消耗」のスピードが加速して行くばかりの現状が全てを物語っているからだ。

また前回の話に戻るならば、「優秀だからこそ競争力が強く周りを飲み込み巻き込んでしまう」し、「優秀だからこそ何でも手に入るし何でも手に入れようとしてしまう」場合さえある事だろう。

そう、実際は「その優秀さ」こそが、今度は人類の足かせになりつつあるとも言えるのである。


では何故、この様な話を繰り返すのかと言えば、「優秀である人」は実際に優秀であるが故に、「自らの能力を基準に周辺環境を設定してしまう」パターンが多いからである。

この構図を単純に表現すれば、「私はコレが出来るのに、キミ達はなぜ出来ないし分からないのだ」と、一種の能力的なギャップが広がるほど他者を置いてけぼりにしてしまう事だったり。
あるいは、「なら分かるまでやって貰うし、出来ないなら居なくなって貰おう」と、否応なしに圧力を高める傾向まで強まるのに象徴される所だろう。

無論、これは優秀である事が「悪い」などと言う話では無く、単純に自然現象として「そうならざるを得ない様に出来ている」のが実相となる。
それは動物界を見れば一目瞭然であり、「生物として強い方が群れの上に立つし異性にアピール出来る」構造からしても、言わずもがな。

結局、進化した時点で他者より優秀となるのは必然であり、それゆえ自動的に「態度の優劣」も決まってしまうのだ。


ただし、ここで一つ重要な点として、この傾向を突き詰めた先にあるのは、「もはや誰もついていけない」構造になってしまう事でもある。

例えば、社会のシステム的な部分は「優秀な人が考え」、そして「優秀な人が作る」構造が基本となっている。
それは産業であれ、教育であれ、医療であれ何であれ、その界隈で「最も優秀な人」を基準にした「規定水準」や、あるいは「目標値」が設定される場面が多い点でも明らかだ。

当然、その方が「クオリティ」や「生産性」の面で高い水準を実現出来るだけでなく、一種の「安全性」や「安定性」を保つ為にも必要不可欠なのも確かであり、故に社会の中心として成り立つに至るのも必然だ。


しかし、実はこれには大きなデメリットも含まれている。

それは先に延べた通り、進化するほど自分だけでなく「他者への肉体的、精神的なプレッシャー」までが自動的に増してしまう点である。


その証拠は、我々が生きている社会の様々な場所に散りばめられている。

これまでのシリーズ中で延べた話に倣えば、「労働に求めるスキル」や「結婚相手の理想」、はたまた「子供の教育」などなど。
それらが「優秀な個体に合わせて高度化・複雑化・平均化」の道を辿るほど、「誰も要望の水準を満たさない」状況となり、それが結果的に「反動」として少子化や人材不足となる環境を形成して行く現状に表れている。

更に言えば、これまでの社会インフラの基本は「健常者」を対象に設計されていた事から、いわゆる障害を持つ当事者の社会進出を阻んでいただけでなく、近年になり「社会全体が高齢化」を迎えるにあたって「自身の親」や、そもそも設計・設置した「自分自身」すら対応が難しくなる現実に突き当たり、やっと改善に動き始めたのも象徴的な例だ。

その反動を「帳消し」にする意味で、今度は一気に「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」などの概念が拡大して行く事となる。


と、これらプレッシャーの事例は、皆様の身近な場所でも頻繁に確認されるものとなっているはず。
そう、この現代社会では、生活全般において「既にそうなっている」。

つまり、進化した優秀な個体が「種族の水準を上げた」反面、今度は生物として「行き詰まる」だけでなく、種族全体として「息詰まる環境」にしてしまう場合もあるのだ。


また、この優秀さに自覚的で、かつ実務的な面で立場や地位を得ている場合、その社会生活における様々なシーンにおいて「自らの優秀さをアピール」せずにいられなくなるし、「そうでない者を排除」する力も強まる事になる。
いわば、己れの能力に自惚れるあまり、他者への配慮を欠くパーソナリティと紙一重になる場合もあるのだ。

勿論、単に「自分は優秀だと思い込んでいる勘違い君」のパターンも往々にして存在するが、いずれにせよ、この様な傾向が強ければ強いほど「自分よりスゴい人」が出ても認められず嫉妬心が増し、その更に上を行こうと「優秀さを証明」しにかかる様になり、やがて「手段を選ばなくなる」事さえあるだろう。

そうでなくとも、この「パーソナリティ+立場」の条件を得ているほど、「間違っていてもアリ」にしてしまう力も強く、余計に「要らない事まで他者に強いる」言動が目立つ様にもなって行く。
それが行き過ぎれば、いずれ他者を利用してでも、環境が破壊されてでも、自らの力を示さずにいられなくなり、やがて身の周りとの軋轢が増すにつれ争いへと発展するシーンもある。

もっと言うならば、確かに「他者を引っ張るほどの力がある」からこそ、「あらぬ方向へと引っ張る」事も出来る訳である。


その勢いに抑えが効かなかったが為に、結果的に「自らにも強く返る」のが反動であり、それこそが優秀な方へと進化した果てに待つ「副作用」。

これが即ち、シリーズを通して述べている「優秀な人が優位を占めても競合して共食い状態になる」との話にも繋がって来るのだ。


だからこそ、その破壊的な連鎖を止める為、どこかしら障害や病気となる事で「全体」に対しブレーキをかけているのだとしたら、それこそがこの世界に存在する「本当の理由」なのでは無いのかと思えてならない。

もっと別の言い方をすれば、「彼らから見て劣等」とされている存在つまり障害や、「克服しなければならない忌むべき因子」すなわち病気とは、実は人類に「必要以上の行動」を取らせない為の役割りがある。

とも表現出来るのかも知れない。


ここまでお読み頂ければ、もうお分かりだろう。


結局の所、いくら「優秀な人」が他者を「劣等扱い」したとて、導かれる結論は「どちらも同じ」。

健全かつ優秀でも調子に乗り始めるし、障害や病気があっても生き残らないしで、どちらか片方に偏った所で行き詰まりを迎える事には変わらない。
単に向いている方向性が違うだけで、そのバランスも状況により変動するだけの話である。


ただし、この現代社会においては双方での揚げ足とりに終始するばかりで、いわば「事の真相」を理解せずに論争するだけ無駄な労力と精神力を消耗している構図となっている。

そして、その軋轢が増すほどに互いのストレスも増し、やがて膨らんだ風船がパチンと弾ける様に、思わぬタイミングで「暴発」するの繰り返しとなってしまうのは、昨今の事案を鑑みても明らかである。

つまり、先に遺伝子の項目で「その世代までは無事に済んでも、先々の世代になるほど歪みが増す」と述べている様に、いずれは何処からか「優秀に進化した引き換えの副作用」が溢れ出る事で、更に社会へ歪みを再生産してしまいかねないのである。


この無益な連鎖を生んでしまうからこそ、「優生思想は無意味」であるとする最大の理由なのだ。



さて、やっとこ結論に達して参りました。

ここまで言うと、何だか救いが無い様に聞こえてならないかも知れません。

しかし、決してそういう話がしたいのではなく、これまでに記したのは「背景」であり「理由」。
つまり、これらを理解してからこそ、「どうすれば良い方向」へ転じれるかも考えられる訳です。


最終回となる次回では、そんな「可能性」について触れて行きましょう。



では、また、CUL。