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超仮説シリーズ・優生思想は無意味 第9回「病変もリミッターでありリセット機能の一つ」

これまでに得られた経験と知見を基に、何故「優性思想は無意味なのか」を解説すべく迫るシリーズ、第9回。
前回まではコチラ遺伝子 カテゴリーの記事一覧 - CULrides カルライズ


🌑LGBTが存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com

🌑発達障害が存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com


今回は、「様々な形で発現するスイッチ」について検証して参りましょう。


🌑病変もリミッターでありリセット機能の一つ🌑

さて、いざ自らが病変の因子を持っていると知ったとして、あるいは発症してしまったとして、素直に受け入れるなど甚だ難しく、そして怒りを覚えるであろう事も間違いない心理。

そうでなくとも、普通なら誰だって病気にはかかるし、病院の御世話にはなるし、とにかく治そうとするはずです。


しかしながら、これだけ医療が発達し患者の症例データの蓄積も膨大であろう世の中にあって、いまだ単純な病気でさえ完全に解消した話も無ければ、まるで聞いたこともない新しい病気や、万に一人の珍しい症例さえ聞かれる昨今。

そうなると、そもそも何で病変や障害となる因子が身体に備わっていて、あまつさえ発症してしまうのか?
と言う話にもなってくるだろう。


然るに此処へ至り、僕はあえて、誤解を恐れず、非難を承知で言ってしまうとすれば。


それらは全て、「特定の生物が極端な勢力」を持たない様に、一定の割合で特定の因子を持った人の中から、何かしらの条件で自動的に発動する、「緊急停止装置」の意味があるのでは無いかと思っている。

あるいは、この地球と言う限られた資源と土地に住むにあたり、全体的な環境や生態系を崩さない為に仕組まれた「バランサー」や「カウンターウェイト」であるとも言えるだろう。

つまり、やはり遺伝子にはリミッターやリセットに該当するスイッチが初期段階から設定されていて、諸々の条件が合わさる事で作動するとの結論に達するのだ。


言ってしまえば、現代社会とは全てにおいて「豊かさ」が優先されるあまり、ひらすらデメリットには蓋をして見ないふりをしたまま、「その生活を手にした自らの優秀さに思い上がっていた」だけなのかも知れない。
しかも、その為には如何にして進化し、他者より優位に立てるかが生活観の基本構造を占める様にもなるので、余計に「打算的な思考」が強化されて行った部分もあるだろう。

こう表現出来る環境下では、その「引き換え」として知らず知らず犠牲になったモノも多かったはずだ。

例えば、それは皆で助け合い生活する「共助」の概念よりも「他者から奪う」であるとか、あるいは何でもかんでも使い捨てる「消費」のサイクルに飲み込まれる一方で、結果的に誰も何も残らない「焼け野原」状態になるとか。

あるいは、「病すらも克服して更に手に入れよう」と邁進したものの、逆にあらぬ方向へ勢いづいたりして、「本来は必然性の無いもの」まで発生させて行く現状を生み出すに至る。
無論、これは優生思想や遺伝子操作を始め、その「先にあるリスク」を含めての話である。

即ち、リミッターやストッパーが効かないと言う事は、「然るべきタイミングでブレーキが効かない」と言う意味であり、いずれ自らもコントロールを失う事へと繋がってしまう場合もあるのだ。


もっとも、それがいつまでも無限に続くものでは無いのが、自然界の法則でもある。
その「ポスト(地位)」は無限とは行かず、追求すればするほど「足らなく」なってしまうのが自明の理。

こう言うのも憚られるが、誰も彼も豊かな生活と健康長寿を目指してしまうと、あらゆる意味で肥大化のスパイラルが加速し、資源の枯渇を招くだけでなく「ポストの維持」すら困難となろう事は明白でもある。

事実、それにより各地で環境破壊や社会構造の歪みが生じていながら、いまだ拡大が止められていないのが実情。
結局、「自分だけは助かろう」とした所で、他の誰かが割りを食う形になってしまうのである。


更に、発達障害の記事では、「先代達と同じ事(資源の浪費・欲求の肥大化)を繰り返させない為、逆に次世代は先祖返りしたり性質が偏るなどで、遺伝子がリセットスイッチを入力している」と述べている。

同じくLGBTの記事では、「先代達の生活環境にストレス要因が増え過ぎてしまい、もはや子孫を残すに適さない状況である事を遺伝子が察知して、あえて次世代の性別をカオス化させ一時的に生殖能力を停止させている」とも記しました。


これら一連の仮説と今回の記事とを照らし合わす事により、現代で起きている事象にも全て辻褄が合ってくる。

それを簡単に纏めるとすれば、この「優生思想に固まった人々が社会の中心」を占めるにつれ、それにより起きる副作用を無視してでも自分達の都合よく利益を肥大化させて来たツケが、現代になり「様々な形」となって一気に反動が返ってきた。

それはガンも、生活習慣病も、認知症も、少子化も、草食化も、引きこもりも、経済の縮小も、果てはエシカル消費も、サバイバル知識の流行も、スモールコミュニティも、何もかもひっくるめて全ては繋がっている。
そして、これらは「過剰な進化と発展による全体の破壊」を防ぐ為に、あえて「真逆の現象が起きる側へとスイッチが入力された結果」なのである。

そう考えれば、今の社会で起きている出来事の高い割合で説明がつくのだ。


無論、だからと言って素直に「病を受け入れる」のも甚だ苦難を強いられる事と表裏一体であり、ましてや闘病中の身や当事者の看護を担う人からすれば、「そんな馬鹿げた話などあってたまるか!」と言う心境であるのも、察するに余りある。

しかしながら、この世から障害や疾患が消えたとして、それで果たして人類が無限に繁栄を、ましてや何の引き換えもなく健全なまま存続されられるのかと問われれば、また疑問が残ってしまうのも確かである。

その上で、もし有り体に表現するならば、生命体として生まれた時点で生老病死からは逃れられない運命なのだとすれば、もはや抵抗した所で本質的な解決など存在しないのかも知れない。


結局の所、この現代はとうに進化や発展の頭打ちを迎えているかピークを過ぎていて、それ以上に進化しようにも「資源が足りず環境が悪化する」し、かと言って放置したままでは「今までの生活が成り立たなくなる」しの板挟みで、どちらも選べずもがいている状態であろう姿が浮き彫りとなる。

そして今、それら歪みを抑制する意味で本来備わっていたはずの「様々な形」のリミッターやリセットスイッチを切り、更に何かを手に入れようとしている様でもある。

それは、その先に待つ副作用を無視してでも。


さて、ここまで至るに、どちらへ進むのが正解なのか。
いや、次は「何のスイッチ」が入ってしまうのか。

皆さんはどう思われるだろう?



では、また、CUL。