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超仮説シリーズ・優生思想は無意味 第7回「その時々の環境で担当者も変わる」

これまでに得られた経験と知見を基に、「なぜ優性思想は無意味なのか」を解説すべく迫るシリーズ、第7回。
前回まではコチラ遺伝子 カテゴリーの記事一覧 - CULrides カルライズ


🌑LGBTが存在する真相🌑
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🌑発達障害が存在する真相🌑
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今回は、「担当者たる遺伝子の役割り分担」について検証して参りましょう。


🌑その時々の環境で担当者も変わる🌑

ここで先ず前提として、重要なポイントが一つ。

それは、生体機能を維持するにあたり担当者(遺伝子)は一人だけでは無く、それぞれ無数の担当者が無数の仕事に従事しているからこそ、全てが成立している点である。


例えば、この「担当者の忙しさ具合い」はセクション毎に異なり、やたら多忙な所があれば超ヒマな所もある。
そして、彼らの各々で能力やキャラクターにはバラつきがあり、その仕事も絶対的に完璧とは行かない事も、その業務のプレッシャーに耐えきれずキレてしまう可能性がある事も、前回に記した通り。

端的に言ってしまえば、この病変化するリスクを抱えた担当者は無数に居る事を意味していて、もっと極端に言うなら条件次第で「全員何かしらの病変」を発症する可能性があるのだ。

勿論、これは単なる可能性の話なので真に受ける必要も恐れる必要も無いが、原理としてはそういう事である。


それで、この担当者の「忙しさ」と「変異」の因果関係が、様々な状況で変化する事を証明する例がある。

先日のLGBTの記事を参照にすると、「LGBTとなる人は集団の中の適任者」であり、「遺伝的要因と生活環境や社会状況など、特定の条件が重なった時に自動的に選ばれる」との旨を述べました。

🌑LGBTが存在する真相・第7回「社会が複雑化するほどスイッチが起動する」🌑
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🌑LGBTが存在する真相・第8回「遺伝子のスイッチは[選ばれた者]に入る」🌑
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上記は即ち、体内に「LGBTを決定づける担当者」が居たであろう事に他ならず、それら先代の変化を感じたからこそ対応に迫られ、結果として「スイッチ」を入力するに至る訳である。


もう少し解説を加えると、その担当部署はこれまで殆ど仕事が無く開店休業か休眠状態だったのが、近年になり「LGBTを生む仕事」が急激に増えた。
逆に、これまでの男性的な性質を担当する部署は「ヒマ」になったからこそ草食化が進んだとも考えられ、いや、もしかすると他の遺伝子からすれば「ヒモ」になっている事すらあるかも知れない。

何れにせよ、それだけ「大きく役割分担が変化するほどの必然性があった」であろう事が推察される。

これを拡大解釈すれば、急にLGBTの担当者が忙しくなった事で、それと関連している周辺部署(脳や臓器など)の業務が追い付かず、いまだ「完全体」でないからこそ、当事者も変化について行けず悩んでしまう構図となるのだ。


更に、この現象と「担当者(遺伝子)の病変」とを置き換えると、また新たな側面が浮上する。


これも人事で例えると解りやすいが、同じ様な業務を担当していても仕事が早い人や遅い人、要領の良い人と悪い人、はたまた早いが雑な人と遅いが丁寧な人など、細かなキャラクターの違いがあるはずだ。
それは即ち、「同じ機能を担当する遺伝的」が人それぞれに備わっていたとしても、その仕事っぷりには各々で微妙な差があると言う事でもある。

しかも、この機能を担うにあたり受けるプレッシャーは担当者によりマチマチで、ある者はラクラクであっても、別の者はシンドイと言った反応として顕れる。
また、これら仕事の「進捗率」が個々で異なるが故に、先々における子孫への影響(体質)も異なるであろう事は言うまでも無い。

つまり、上記が人体の免疫機能でも同じ現象が起きているならば、この違いこそが「特定の病気になりやすい人と、なりにくい人」などの違いとして顕れるのだ。

これと同列に例えるのは申し訳ないが、この担当者の仕事っぷりが「人の性質」そのものに影響を与えるのだとすれば、LGBTの場合は「なる人」と「ならない人」との差異となり、ひいては「細かな性的指向の違い」へと繋がって行くと考えられるのである。


これを翻すと、例えば仕事効率の悪そうな担当者(遺伝子)を排したとしても、その後に環境変化が起きたり病原菌が侵入した際に、また「別の担当者」に業務が押し付けられた挙げ句、結局は急激に加わったストレスやプレッシャーなどの要因から病変化する可能性があると言う事。

もっと言えば、パッと見で病弱かつ目立った活躍をしなさそうに見える「頼り無い担当者」が居たとしても、実は「特殊なスキル」の持ち主であり、その人でしか出来ない業務があって、居なくなると本格的に免疫力を失う事になり、やがて組織(身体)そのものが持たなくなるであろう可能性も意味している。

これを言い換えれば、表向き求められる「生産性」とは別の役割りをこなす担当者が一定数存在しているお陰で、「余力」も「新しいスキル」も生まれている事になるのだ。


従って、ここで最も注意したいポイントとしては、いくら仕事が遅く要領が悪かろうが貧弱だろうが、それと実際の内容すなわち「質」とは必ずしも相関関係にはならない点である。

無論、仕事が早い方が対処も早くなるし結果に繋がり易いのも事実であるが、逆に遅かったからこそ「重大な事柄に気付く」と言うのも往々にして起きるもの。
むしろ、「ヤバイ早く何とかしなきゃ」と焦る時ほど見落としが際立つ事を考えれば、いくら遅かろうと一つ一つ検証しながら進めた方が項を奏する事もある。

これは先頃の「○○ペイ」の様に、開発を急ぎすぎるあまりシステムの穴を放置してしまい、結果的に侵入者を許してしまった事案が最たる例。
もし、この時、誰か一人でも「もうちょい待って検証しましょう」となっていれば、話は変わっていたかも知れない。

逆に言えば、慎重かつ時間がかかったからこそ「より良くなった」。
そんなシチュエーションも往々にしてあるのだ。


この話を再び「人体の病変」へと戻すと、更に理解が早くなる。


先述の例に倣えば、この遺伝子の持つ対応速度の違い、そしてシンドイかラクラクか受け止め方による違いとは、「今まで活発で元気だったのに急にガンなどの大病を患う人」、そして「普段から大人しくボチボチ病気にも見舞われるが大きい病にはならない人」と言った違いとなって顕れるものと考えられる。

例えば、あまりに活発でスピーディーな担当者(遺伝子)ほど自分が無理している事に気付かず、そのまま許容量をオーバーして自壊してしまうのがガン化などの病変に繋がるのが前者。
あるいは、生体機能の「プログラミング」を急ぎすぎるあまり粗が目立ち、それが人の性質にまで「荒く」作用してしまうパターンも含まれる。

逆に、どんな緊急時でも悠々と構えていて「全く動じない」担当者や、最初から「ほどほど」程度にしか仕事をしない担当者も居る事になるはずで、この場合、体質的には虚弱気味だが遺伝子の活性が高く無いからこそ「症状が緩い」後者となる。
その場合は、本人の性質的にも穏やかな傾向となってくるだろう。


更に言えば、この両者の違いは漢方の世界において前者が「実証」、後者は「虚証」と言う概念に象徴されていて、また両面的な意味の「複合型」もある。
これらは「どちらも人の持つ特性」なので良いも悪いも無く、単純に病気に対する対処法が変わるだけの話である。

これを翻せば、体質的に病弱であったとしても「無理」をさせないからこそ、「体全体が静かに落ち着ける様に守られている」、とも捉える事が可能となる。

もっと言うならば、担当者が全員エネルギッシュなイケイケモードでは、あっと言う間に「全体」が疲弊し、やがて組織(身体)の維持が困難となってしまいかねない。
だからこそ、その勢いを抑えてバランスを取る為、そして全体の崩壊を防ぐ為に「あえて遅くて貧弱な」担当者が存在するのだ。


さて、ここまで読んでみて如何だろう。

これを「社会」に置き換えた場合、その共通項は非常に多く、納得が行くのではないだろうか?


ここまで遺伝子の話ばかり続けたのは、結果的に人の世でも「同じ事が起きる」から。

そう、遺伝子で起きている事も人の世界で起きている事も原理は「同時平行線上」にあり、全ては繋がっている。

単に外見上の形が違うだけの話で、これを人の世界で表現したものこそ「必要無いと考えられる存在を排除する行為」、即ち優生思想の出来上がりと言う訳である。


つまる所、この担当者の「本質的な存在意義」とは、「表向きのキャラクター」だけでは無く、その「生きている環境(社会)」や「起きている現象(情勢)」との関係性を総合的に吟味しない限り、必ずしも病変化するかどうかや、役に立つかどうかは評価出来ない。
その担当者が真価を発揮出来るか否かは、全てその時の状況次第だ。

しかも、たとえ担当者の対応が遅くて病弱そうであったとしても、「本当はそのやり方で合っている」可能性も無きにしもあらずだし、実は「だいぶ後になってから意味が解る」場合すら有り得る。

その状況下で出来る事と言えば、やはり「アシスト」と言う事になり、とにかく担当者が業務を遂行出来る様にヘルプしながら、壊れない様に見守る必要があるだろう。

それどころか、「コイツ頼り無いしダメそうだな」と捉えたまま、短絡的に「アレを切り取って病変化したんならコレも切り取っちゃえ」と手当たり次第排除するのは、いずれ根本的な生体機能の維持にすら支障を出しかねない行為である。

当然ながら、それは先々で重篤な「合併症」を引き起こすリスクと紙一重であるのは言うまでもない。


だが、これでは、もはや人員をとっかえひっかえ入れ替えまくる「超ブラック企業」みたいなもの。
こんな事を繰り返していては、そう遠くない日の「死に体化」は免れられないだろう。

やはり、迂闊な遺伝子の切り貼りは、文字通り致命的な副作用を招くリスクと隣合わせなのだ。


さて、次第に核心へと迫って参りました。

しかし、これはまだ真相の一部に過ぎません。


次回、更に優生思想を突き詰めた先の未来へと触れて行きましょう。



では、また、CUL。