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超仮説シリーズ・発達障害が存在する真相 第10回「発達障害の力が活きる=人類が存続する」

これまでに得られた経験と知見を基に、この現代に「当事者が存在する理由」の真相を解き明かすべく迫るシリーズ第10回。

🌑LGBTが存在する真相🌑
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🌑発達障害が存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com


今回は「生きづらさと言う反動を解消する方法は何か」について、話を展開して参りましょう。


🌑発達障害の力が活きる=人類が存続する🌑

前回までに記した、「生きづらさを生み出している環境」を解決するには、やはり温故知新。

即ち、過去の社会がヒントになるだろう。


これは例えば仕事の場合、昔堅気な職人の世界であれば、各作業に特化したエキスパートがいて、彼らはその仕事に打ち込める環境に身を置いている。
その周りの人も、集中させた方が良い結果を生む事を理解しているので、何か必然性が無い限り余計な事はさせず、また各々も自らの立ち位置に忠実であるのが通常であった。

そして、仮に何か特別な要求があったとしても、出来るか否かは職人の裁量次第でもあり、その時に「どうしても必要である」との説得材料が存在しているかが重視されていた。

となると、そこで断られた場合、要求する側は「自分でやるか別を探す」事になるので、実際のお互いの立場としては一定の領域内に保たれていた事になる。
何故なら、その要求を無理に通すほど反発が強まるだけでなく、最悪は相手側の領域を破壊する事にも繋がり、「実質的な生産」とは反比例に無駄なストレスと疲労感だけが増大してしまうからだ。


そう、人は本来、集中力を削がれたり気が散ってしまうと、自分を含めた全体のパフォーマンスまで格段に落ちてしまう事を肌で知っているのである。

これを言い換えれば、「ほどほどの要求」で済んでいれば、人の受ける「プレッシャーもほどほど」に抑えられるし、それにより「反動のスピードが抑えられる」とも言えるだろう。


勿論、そこから徐々に業務を拡大する場合もある訳だが、それは「余力」が生まれてからの話。
あるいは、「そうしたい人」や「必然性のある人」、即ち「出来る人」がそうすれば良いだけの事。
先住民の社会を例にした様に、人間や生物が本来出来る範囲は限定的である。

それを「他の人」もトレーニングによって押し広げるのは可能ではあれど、急激にアレコレ詰め込んだり同時にこなさせようとしても、現代は過去に比べ「時間あたりの業務ウェイト」が遥かに増大しているので、簡単に人間の許容量をオーバーしてしまう状態。
ハッキリと言えば、人間が壊れて当然の世界となりつつあるとさえ言って良いほどである。

これは最近謂われる「マルチタスク」が代表例で、何でもかんでも一人に対して業務を詰め込んだ方が効率的かと思いきや、逆に各作業のクオリティが低下して行く悪循環を招いている状態。
長期的な観点で言えば、「その時点までは大丈夫」だとしても、先々で更に要望が肥大化した時に「そうでなくなる」可能性が飛躍的に高まるのだ。

もっと言い換えれば、それが出来る極端に優秀な人の例を基準にした所で、「誰にでも出来るものでは無い」し、「誰にでもやらせて良いものでも無い」のである。

この様に、結果的に「高度化・複雑化・平均化」をして負担が増大してしまえば元の木阿弥。
それまでと同じ事(社会の疲弊化・カオス化)の繰り返しとなるだろう。


更に、昔の商店街等を思い出すとイメージし易いが、そういった商店は自分で仕入れから仕込み、そして販売から片付けまで全てを自らこなすのが前提にあり、確かに拘束時間も業務量も多いと言える。

だが、その「規模」が重要で、解りやすく言えば「自分の手で回る範囲」で完結するのが通常であり、そして「裁量」もまた自ら握っていられたからこそ、精神的にも集中力が持続出来た部分が大きい。
つまり、無理矢理やらされるのと違い、自然と成長し維持できる環境があった訳である。

また、その店主であれ従業員であれキャラクターは人それぞれで、そこに「優秀」であるとか「標準」などの明確な基準は存在しておらず、あくまで「その人」として過ごしていたし、仮に偏屈でクセがあろうと「やる事はやってる」と周りから許容されていたはず。

そういった場では店主の力も強いので、無駄なクレームをつける人は殆ど居なかったし、居ても当事者同士でモメては周りが仲裁に入ったり、変な客が来れば追い返しても大して問題化する事も無かった。

だからこそ個の持つ本来の力が発揮され、それが町などの全体へと波及し、人も社会も元気でいられたのである。
これを人体で例えれば、細胞単位で元気だから病気にも強くなり、体も健康に保たれるのと同様の原理と言えるだろう。


しかし、先の記事でも延べた様に、「何でも出来て何でも揃った優秀な人」に囚われると、ほんの些細な相違点が発生しただけで「弾かれる」原因となるだけでなく、誰もがそのプレッシャーに何時までも対応出来るものでは無くなってしまう。

そればかりか、「何でも要求に従ってくれる」などとあらぬ「期待」が増幅するあまり、その期待にそぐわない人を排斥する心理まで生まれる事になる。

これを社会の前提に据え続ける限り、その優秀な人が限界を迎えて新たな優秀な人に入れ替えたとしても、いずれ優秀の歯止めがかからなくなり、それでも際限なく優秀を求めた挙げ句、人材はいずれ底を突く事になるだろう。


つまり、世間ではよく「人手不足」といわれているが、正確には「人手不足となる様にさせてしまった」のが現状。

そして前回の結論に倣えば、それと同じく「人に対して要求のプレッシャー」を加え過ぎた代償として、その「映し鏡」の様な形で発達障害が強調されて浮かび上がるにつれ、実際に当事者とされる人々が増えて行き、ますます「要求に足る人材が減る」構造になるのだ。

まったく、これでは消耗戦である。


その上で、この現代に本当に必要な事とは、いわば社会の「棚卸し」の様な作業なのでは無いか。
あるいは、今は発展にブレーキがかかってでも、一度過去を振り返っておくのは有効な手段と言える。

むしろ本当に危機を察知しているのならば、一度スピードを落とし「コースの先」を注視していないと、いずれスピンかクラッシュするやも知れない。

もしそうなった時、人は「巻き込まれたい」だろうか?
それとも、「巻き込まれたくない」と思うだろうか?


と言うより、既に先進国の発展が頭打ちで、これから縮小すると言われている中、これ以上の無闇な肥大化は更なる反動を生む事にもなりかねず、それこそ一向にカオス化に歯止めがかからない状況が続くだろう。

大体、何も前に行く事ばかりが「進化」とは限らないだろうし、ちょいと視点を変えるだけで思わぬ道を発見する場合だってあるはずだ。
やはり何事も、これまでに何が起きて何がダメで何が良かったのかを検証し直さない限り、その歪みを抜本的に是正するのは難しいと言わざるを得ない。


となれば、既に生まれた当事者の「活かせる部分を活かす」方向へシフトする事が、まさに軌道修正の時。
発達障害の凹凸がある性質をデメリットとするのでは無く、「メリットのある部分」にフォーカスして活かす場を構築すると言う事は、人々も社会も一種の「ルーツ」に戻る切っ掛けとなるだけでなく、幅広い意味での「生きやすさ」に繋げる事も期待できるはず。

社会がフラットかつ優秀や標準を志向する中で、その反動として彼らの性質や能力が突出してしまっているのならば、それを元の流れに戻す事もまた必然であろうと思うのです。


それが結果として、将来的に人類の生きる場を構築する為の礎になるのだとすれば、これこそ「発達障害として生まれたもう一つの理由」と言っても過言では無いのかも知れません。


そんな話を踏まえ、次回は最終回。

一連の検証を通して導き出された、発達障害が存在する理由の「真相」について触れて行く事にしましょう。



では、また、CUL。