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超仮説シリーズ・発達障害が存在する真相 第5回「社会が平均化すると先代の性質が強調される」

これまでに得られた経験と知見を基に、この現代に「当事者が存在する理由」の真相を解き明かすべく迫るシリーズ、5回目。

🌑LGBTが存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com

🌑発達障害が存在する真相🌑
culrides.hatenablog.com


今回は「発達障害のパーソナリティが目立つのは何故か」について、話を展開して参りましょう。


🌑社会が平均化すると先代の性質が強調される🌑

先ずは、前回までの話をフォローしておこう。


例のF1品種が必要な理由について軽く付け加えておくと、「食味の向上」や「収量の増加」のほか「常に平均化された品質を保つ」事も目的となっている。

この平均化とは、先の項目で述べた「より美味しく大きく丈夫な品種で揃える」事を指している。

即ち、この品種を主力に据える事で、均一的な品質の作物の大量栽培が可能となるだけでなく、流通量と価格を安定させ、やがて簡単に消費者の手に入る事となるのだ。


一方、その親世代となる固定品種は、栽培されている地域により性質に微妙な違いがある為、収穫期や味にも違いが出る事となる。
また、栽培される土地が限定的となるので、「収量が安定せず流通に乗せづらい」事から、生産地と近隣以外には流通する機会が少ないのが通常。

先述した「世代を重ねるにつれ土地に馴染む」と言うのは、言い換えれば「産地によりバラつきがある」事と表裏一体なのだ。


無論、F1品種も生産地に合わせて品種改良されている訳で、たとえ同じ品種であっても育てる地域により味にも微妙な違いがある事だろう。

だが、ここで重要なのが「平均化の度合い」。

端的に言えば、固定品種は土地により品質(性質)が多様なのに対し、F1品種は「どこでも同じ品質となる様に出来ている」のが基本となり、また「同じ品質となる為に育て方も統一されている」傾向が強いのである。


これを再び人間社会へ置き換えると、ある特殊な構造が浮かび上がってくる。


いわば現代が「全体的に平均化された社会」であるとした場合、対極となる先住民の社会は「地域性が多様」であり、当然それにより性質や能力にも違いがある事が解るはずだ。

すると、それらの「性質や能力を保持した人物」が、平均化された社会へ出るとどうなるのか?


そう、「極度に平均化」された社会では、昔ながらの性質や能力の凹凸が大きく強調され易くなる。

しかも、それらが平均化された人と比較して「過不足の差がある」とデメリットとして捉えられた場合、存在する場所(学校や会社)によっては「扱いづらい人」になるばかりか、やがて「その土地(社会)に馴染まない」シーンが増える。

その相違点が高じるにつれ、「それまで普通に生きていた」はずの人でさえ、やがて自らの生きる場所や存在意義を失う事に繋がり、心身の激しいギャップを生じ苦悩する果てに、一種の障害とまで診断されてしまうであろう様子が明らかとなってくるのだ。

そこで表向きは馴染めていたとしても、余ほどに上手く生活環境がハマらない限り、実際の気持ちや深層心理では「元の性質」が燻り続ける事になるだろう。

その意味では、先祖返り説を補完する形であれ、やはり先代からの性質が色濃いほど、現代では生きづらくなってしまうであろう事は想像に難くない。


ならば、その先代からの性質が、この平均化された社会の中で、生きづらさの要因になったとしても、いまだ「必要」なのは何故なのか?

この深層を探ると新たな側面が顕となって来るのですが、それは次回より触れて行きましょう。



では、また、CUL。