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超仮説シリーズ・LGBTが存在する真相 最終回「LGBTとは正常化を促すメッセンジャーかも知れない」

これまでに得られた経験と見解を基に、LGBTとなる真相を解き明かすべく迫るシリーズ、最終回。
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今回は「LGBTの存在意義」について話を展開して参りましょう。


🌑LGBTとは正常化を促すメッセンジャーかも知れない🌑

さて、ここまで長々とLGBTの生まれた理由について論じて来た訳ですが、それら要旨を箇条書きすると以下の様になります。


・魚類は成長段階や環境変化に応じて性転換したり、爬虫類などはオスを介さなくても繁殖する場合がある。

・それらは特定の条件が揃った時に、そして特定の個体に対して遺伝子のスイッチが入る事で起きる。

・人間にも同じスイッチがある場合、同じく何かしらの環境変化が生じた時に、次世代へ影響が入力される。

・その環境に対応する為、一時的に性別の機能を停止させたりカオス状態を作るなど、パターンを複数作り出し様子見をしている。

・ただし、完全な意味での変化(適応)には数世代の時間が必要となり、その過渡期にある状況では、しばしば心身が一致しない場面が多くなる。

・そのギャップこそが、生きづらさの要因となっている。


上記が概要となります。


しかし、これらの要因だけを羅列しただけでは、通常とされる人々にすれば「なんだか大変そう」といった認識だけで済まされてしまいますし、結局また人権の話に戻ってしまいます。

これでは当事者の置かれた現状は殆ど変わらず、生きづらさが燻り続ける事に変わりありません。


それでも、この記事を執筆している内に、実は彼らには明確な「存在意義」がある事に気付いたのです。

その存在意義とはズバリ、キャプションの通り。


LGBTとは現代社会の構造や環境を正常化させる存在」


なのでは無いかと言う事。

これは一連の記述を見ての通り、社会の競争力が過剰化して疲弊しない様に、生活環境そのものが悪化するのを防ぐ為に、「このままではお互いに潰しあって本格的に子孫が生き残れなくなるから止めよ」と言うメッセージなのだとすれば、非常に合点が行きます。


いわゆる「男性的な社会」が他者に対する攻撃性が強いのは、フィジカル的に厳しい環境に囲まれていたり、侵略や紛争など戦いが身近に存在するが故の必然でもあります。

しかし、それはお互いの力を誇示し続けねば、いつ何時攻められるか分からない不安と紙一重にあるのが常。
時に更なる力を示そうと、老若男女を問わず他者の全てを抑圧しにかかる事にもなる。

いわばマッチョニズムこそ正義な世界を基本原理として肥大化し続けた結果、その厳しさがやがて自らの首をも絞めるに至り疲弊してしまったのが現代だと考えられる訳です。


一方、それと比較的するとLGBTの方々は攻撃性が低く、まさに中性的な性格傾向にあり、人当たりもマイルドな印象を受けます。

実の所、ここまで書いておいて言うのも憚られるのだが、個人的な生活の中においてはLGBTの方と全くもって関わりが無いのが正直な話。
だけど、それでも何となく思うのは、基本的に「優しい人が多い」と言った印象である事。

そこで更に付け加えるとすれば。


「他者に対する許容力を拡張させる媒介」


と言った意義もある様に思えるのです。

これならば、過度の社会的な摩擦を防げる様になるだけでなく、いわば「社会を中和する」為の存在となる事も出来るでしょう。


それでも何だかシックリ来ないのであれば、「我々が無神経な人々の後始末を肩代わりしてあげている」。


と、開き直るのも悪くはありません。

事実、そういった側面があるのは否めない訳ですが、それでも自らの立ち位置を定める為の、いわば精神的な安定には寄与するかなと。

無論、だからって「わかれよ」などと権利を振りかざして傲慢に押し付けてしまっては本末転倒。
中にはエゲツないキャラクターの人も居るでしょうし、何かと善い人ばかりな訳でも無いはずで、これは必ずしもLGBTが「正義」と言う話でもありません。

それで結局、他者を排斥したり抑圧してしまっては、先代達と同じ轍を踏む事になり元の木阿弥となりかねないので、あくまで例えばの話。
何にしたって性別や立場が問題なのでは無く、「その人がどんな人なのか」と言うだけの事ですからね。


しかしながら、彼らLGBT当事者が持つキャラクターの根底には、特殊な出自であるが故に自らの心身に戸惑い悩み、時に理解されず拒絶されてしまった経験により、内省的で自制的とならざるを得なかった側面があったであろう事は想像に難くありません。
その意味では、この時代や社会の中では必然的なパーソナリティーだとも言えます。

いや、と言うより、それが先天的な能力なのか後天的な要因によるものなのかは別として。


もしかするとそれは、生きづらさと引き換えに備えられた、「感受性」という最大の能力なのかも知れません。


いずれにせよ、これらの存在意義と、その感受性が活かされて来る様になれば、それは先々の社会を良い状態へと導く絶好のエレメントにもなるはずです。

だから、今は動きづらくとも、まだ可能性を探ったり、少しづつでも模索し続ければ、何かしら突破口が開ける時が来るかも知れません。


もし、自らがLGBTとして思い悩んでいる方がいらっしゃるのだとして、一連の記事が何の役に立つかは甚だ謎が多いのが正直な所。

しかし、それでも、ここに記した仮説を更に検証してみたり、あるいは僅かながら助力の1つにでもなれれば、これ幸いな事なので御座います。



では、また、CUL。