前編では「土壌が改善された経緯」について、当プロジェクトで試みた実験内容と、それにより起きた現象について言及。
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一連の流れを検証してみた結果、どうやら有機物の投入により微生物が増えた事で「それらが病原体を食べて消化している」可能性が浮上。
他の参考文献とも照合するにつれ、具体的なメカニズムが明らかとなってくるのでした。
そんな前回を踏まえ、この後編では「微生物と植物との関係性」と、それら相互作用により如何にして環境内のバランスが保たれているのか。
更に加えて、「先々で考えられるリスクと対策案」などについても記述して参りましょう。
では、いざ。
🌑自然界は自動的にバランスを取ろうとする🌑
さて、前編までの話は何ら荒唐無稽な仮説にあらず、自然界を観察すれば「なるほど」と言う現象が幾つも思い当たる。
例えば、そこら辺にある様な、毎年同じ様な雑草が生える草叢(草っぱら)があるとして、そこでウドン粉病の様な病害が蔓延した、ましてや全滅した例は殆ど聞かれない。
あったとしても、かなり珍しいケースのはずだ。
無論、いくら雑草の免疫力が強かろうと何かしら病気は発症するだろうし、あたり一帯で局所的に流行る事だってあるに違いない。
ただ、それでも無限に拡散する訳では無く、パッと見では同じ種類の雑草でも交雑種や亜種が存在するなど、個体や地域ごとで性質には微妙な違いがあり、全てが罹患しない様に遺伝的に多様化されていたりする。
また、それら植物の分布もエリア毎に変化する為、「この草は罹患するけど、あの草は平気」といった形で、いずれは拡散が止まる様に出来ている。
つまり、いくら流行り病があったとしても、基本的には抑え込むだけの「パワーバランス」が存在しているので、ほんの一時的な現象で終わる場合が大半であるものと考えられる。
何故なら、病原菌も無限に繁殖を続けた場合、いずれ宿主が絶滅などしてしまえば自らの存在をも失われる結果となりかねず、どこか一定の範囲内で留まらざるを得なくなるからだ。
しかし、これがもし、当記事で言うダンゴムシやミミズを始めとした微生物を一概に「害がある」などとして完全に排除したらどうなるか。
なおかつ、遺伝的に単一化された系統の植物や作物だけで、あるエリア一帯を占めてしまったとしたら。
それを突き詰めた時こそ、病原体を分解する循環役が居らず、また特定の病害虫ばかりが繰り返し発生してしまう要因となる。
しかも、排除された状態を継続するほど「生物間で行われていたサイクル」が薄まって行き、ますます薬剤に頼ったり、土壌改善の為に新しい土まで必要になるなどでコストがかさむ。
それに加え、このサイクルによる「土壌のリセット効果」が滞るにつれ養分や細菌の構成が偏る事で、いわゆる連作障害の根本的な要因になっているものと考えられる。
となると、ますます人の手で何かしらテコ入れしない限り回復しないスパイラルへ陥り、まともなものが育たなくなるリスクまで高まって行く事にもなる。
結果として、これら生物間のパワーバランスが失われる事によって、まるでシーソーが一気に傾く様に、一方的な偏りを生じた果てに最悪は「病原菌も宿主も共倒れ」といった事態をも生みかねないのだ。
では、方や自然任せの雑草帯で、毎年同じ場所で同じ様な雑草が生え替わる事が出来ているのは何故なのか。
この理由を簡単に言えば、多種多様な微生物による循環作用が機能しているお陰で、それら植物自体も「免疫力が強化」されているから。
要するに、それらに負けない様に植物は自主的に強くなろうとするし、あるいは成長に必須な栄養素を生成してくれるなどの「相互作用」が活発化する事で、生命力が目覚めているのだ。
あるいは、多様な微生物や細菌が身の回りに居る事で、「植物が鍛えられている」とも言えるだろう。
更に、豊かな生態系であるほど連鎖的に様々な生物が集まって来る事になるので、受粉や交配の成功率も高く、より病害虫に強い品種(新種)が現れやすくなる。
当然ながら、循環役の生物も多いぶんだけ、イザと言う時の「処理対応」も素早く、病原菌などの蔓延を防ぐ力も強いのは言うまでもない。
これら自然界のメカニズムを鑑みるに、つまるところ現代の菜園や農地と言うのは人の手が入り過ぎて、そのエリア域内における植物(作物)も土壌も「生命力が低下」している状態なのだろうと推測せざるを得ない。
「それ」を続ければ続けるほど多様性が薄まり、ますます循環や自浄作用が失われる悪循環となりかねず、最終的には「1から10まで」手を加え続けねば環境を保つ事が出来なくなり、下手すれば誰も生き残らなくなる可能性すら出てしまう。
ハッキリ言ってしまえば、そもそも土壌に病原体や細菌が居るのは「普通」であって、生物が多様である以上、完全に排除される事は無い。
単純に、その環境であるからこそ、雑草は耐えうるだけの性質を備えているだけの話であり、むしろそれら病原体と「共存」していたお陰で強くなった側面があるのも先述の通りだ。
それと比較するに、現代の作物や観葉植物などは文字通り「無菌状態」での栽培が主流となっているが故に、余計に耐性が弱まっているし、アレコレ世話に手のかかる箇所ばかりとなってしまうのだろう。
となると、いくら土壌改善しようが僅かに残った病原菌でも感染しかねないし、かと言って虫が増えても噛られ放題になるしで、やはりどの道行き詰まる状況には変わらなくなって来る。
究極的には、「土も養分も発芽も受粉も全てにわたりケアし続ける」か「自主的に育つだけの活力を備えられる様に虫や病原体と折り合いをつける」かで二者択一を迫られるか、もしくは双方の折衷案を探る必要性もあるのでは無いか?
そんな様相も露となって来ます。
とまぁ不安材料ばかり並べ立ててしまいましたが、いくら手をかけた土地であろうが、都市化された町であろうが、放置していれば知らぬ間に草木に覆われて家も飲み込まれ、やがて森林や草原など元の姿に戻って行くもの。
そうやって自然が強制的にバランスを取ろうとするのも、結局は「それが正常な形」だからなのかも知れません。
しかしながら、ここまでの流れを考えるに、仮に家庭菜園などで「自然に近い環境」を再現したとて、まるっきりメリットばかりとは成り得ない事が分かります。
そこには自然だからこそ、「生物間のせめぎ合い」も必然的に存在するのです。
そんな訳で、次の項目では「自然界に任せる事のデメリット」についても触れてみましょう。
🌑自然任せ故に自然発生するデメリット🌑
もっとも、近年は自然農法や有機農法が流行している事もあり、上記までの内容など既に知られた話ではある。
そんな中でも改めて触れておきたい話題があるとすれば、前途の通り「自然任せは自然であるが故に自然とデメリットが併存する」と言う事。
あえて言ってしまえば、自然農法を「正解」と断じるには早計であるし、また育てる側(農家)と入手する側(受益者)の双方で、気持ちの度量が必要とならざるを得ない部分があるのも事実。
それは例えば、人の手を加えるほど土壌も植物も生命力が落ちるのに対し、自然農法ならば生命力の弱い個体は生き残れず、多様な生物が活発化する事で結果的に「栽培物が餌食にされる」シーンも必然的に発生する。
仮に病原菌などが抑制されたとしても、それら生物が沢山いれば住み処として定着するだろうし、卵を産み付ける事だってある。
また、長期的に見れば「ずっと食害が続く」事にもなり、駆除が進まず延々とイタチゴッコとなる場合さえあるだろう。
つまり、いずれ何らかの農法を選んだとしても絶対的なメリットばかりでは無く、どちらも必ず「引き換のデメリット」が存在する。
この点に触れない限り、フェアに説明したとは言い難いのだ。
このメリットに関して当プロジェクトで例示すると、落ち葉など有機物を大量投入した事でダンゴムシやミミズが増殖し、それらが病原菌を食べて消化してくれたお陰でウドン粉病が抑制された。
しかし、今度はダンゴムシの個体数が増えるに伴って作物の食害も増加し、苗を丸ハゲにされたり果実にキズを付けられるシーンが頻発。
あまりに数が多すぎて、それらの監視や駆除が行き届かない部分が多くなっていた。
そう、まさに「病因が消えた引き換えに食害が増す」と言うデメリットを抱えたのだ。
しかし、である。
個人的には、これら昆虫による食害や繁殖に関して「ある程度は仕方ない」し、むしろ環境を守ってくれているぶん「幾らか食べられても良いんじゃないか」と考えていたりもする。
この考え方については昔から良く言われている事で、ある程度の年齢を重ねた方であれば、似た様な話を両親や祖父母が語っていた記憶があるはず。
それこそ、かつては「虫が食べる野菜は安全」とも言われていた位であるし、むしろ多少噛られる程度など大したデメリットですらないとも言えるだろう。
無論、これには程度の問題があるので、よもや虫が大繁殖し過ぎて根こそぎ食害を受けたのでは、また結果的にバランスが崩れた事になってしまう。
故に、様々な手法をもってして防除する為の工夫が必要となるのだが、それでいて完璧に防げる訳でも無かったりするのが現実。
やはり、どんな手法であれメリットだけで成立する事など無いに等しく、いずれ何らかのデメリットが発生するものである。
翻って、現状はと言えばどうか。
それを知ってか知らずか、近年は作物に「完璧さ」を求め過ぎるあまり、例えばサイズの大小や形の差異を始めとして、ほんの些細なキズに対しても過敏に反応しがちで、やけに否定的な動きが顕著化している様に感じられてならない。
その反応は虫食いが最たるもので、ましてや小さな虫が付着しているだけでクレームとなるケースもある事だろう。
一体いつからこんな事になったのかは定かで無いが、少なくとも数十年前までは野菜に虫が居て当たり前な世界だったし、またキズモノが混ざっているのも普通の光景だった。
例えば軽い虫食い程度であれば、その部位だけ切除して食べていたし、気になるなら熱を加えれば良いだけの事。
昔はその程度の事で殊更に誰も大騒ぎなどしないし、無駄なイチャモンをつける事も無く、よほど酷くない限り「あ、虫食ってら」程度のノリで淡々と受け流していた節さえある。
当然ながら、これは狙ってわざと食べていたと言う意味ではなく、「そういうシーンが度々あった」だけの話で、知らぬ間に口にしていたであろうパターンも含む。
要は、それだけ身近に居る機会が多かったのだ。
だが、それで健康状態を害した経験など、少なくとも身の回りでは聞いた事も無い。
と言うかあの当時は、それらの野菜を食べていても健康体で元気な人が多かった位である。
なのに、近年は「品質基準が徹底された完璧なもの(作物)」が主流を占めるのと反比例するかの様に、やけに食物アレルギーなど免疫系の疾患を抱える人が増加しているのは、何だか逆説的な現象にも思える。
いや、むしろ先述した「無菌状態で育った作物」などの話とを照らし合わせるに、まるっきり同じ事が起きているとさえ言えるのではないか。
個人的には、そういった「自然現象との接触機会」こそが人間の免疫力(腸内細菌叢、アレルギー耐性、耐病原菌など)にも多大な影響を与えているものと考えているが、この話は長くなるので今は置いておこう。
上記を鑑みるに現在、この基準値を厳格化するあまり「規格外品となる幅」が狭まり過ぎて、「本来は大したデメリットでない事」を殊更に強調し過ぎている感が否めない。
それが行き詰まるところ、いわばブーメラン的に自らの首を絞める行為となって跳ね返り、最悪は食料を失うリスクにも繋がりかねない点には留意が必要である。
話を元に戻すと、この昆虫であるとか微生物などにせよ、それらの「生命活動を如何に受け入れられるか」が、先々において自然農法がメインストリームに乗れるか否かを左右するのでは無いか。
大袈裟に表現すれば、虫にパリポリ噛られても「ま、しゃーない」で済ませられる心持ちにならない限り、軌道に乗せるのは困難であろうとを思わざるを得ない。
何故なら、もはや自然を受け止めるセンスを失いつつある人々が大勢を占める以上、取り戻そうにも相当な時間を要するに違いなく、そもそも「人間側の土壌」が整うに足りていないからだ。
何れにせよ、そういった「必然的に居る理由があった生物達の存在」を拒絶し排除してしまったからには、やはり何かしらの反動や副作用が起こりうるものと考えざるを得ない部分がある。
いや、極端に言ってしまえば、既に環境とのバランスが崩れた状況が続いている限り、残念ながら人間の生命力も免疫力も連動する形で低下するのは避けられないのだろう。
果たして今では生物と身近に遭遇する事も、触れる事も殆ど無くなった現代人が、そんな「自然現象」に耐えられるものなのだろうか?
これこそが、「どちらの農法にも引き換えにデメリットが存在する」と言う事。
自然農法を選ぶにせよ、育てる側と入手する側の双方で色んな生物の活動を受容出来うるだけの度量が必要になる。
と言う話なのである。
またしても重苦しい展開でありますが、そんな厳しい面が自然に存在するのも紛れもない事実。
と言うか、この話も説教臭く長々と話す様な事では無く、かつては当たり前過ぎて語る必要すら無かったものが、「あえて語らないと誰にも伝わらない時代になった」とも言えましょう。
然るに、この如何ともし難い状況を皆さんはどう考えるだろうか?
まぁ僕個人としては、どこで収穫されたものであれ「食べられるだけ有り難い」としか思っていないので、結果的に虫食いがあろうが不揃いだろうが、どちらでも構わないと言った所ではありますが。
🌑全てはバランスによって保たれる🌑
ちなみに、ここ最近ニュースなどで話題となっているのが、サバクトビバッタなる昆虫の話題である。
※参考画像はロサンゼルスにて撮影したバッタで、本文とは関係御座いません。ちょっと似てたので流用しました。
これが現在アフリカで大発生し北上を続け、中東から中国を経由するにつれ倍々ゲームで繁殖しながら作物を食い荒らし、やがて最終的に食糧難が訪れるのでは無いかと懸念されている様である。
また、かつては日本でも明治12年ごろ、北海道にてバッタが大発生する蝗害(こうがい)により、数年間にわたり農作物が食い荒らされる被害に見舞われたと言う。
故に、まるっきり対岸の火事と捨て置ける話でも無いらしい。
当然ながら、このバッタが大発生した理由など知る由も無い。
ただ、個人的な感想で言ってしまうに、恐らくは何かしら環境のバランスが崩れていた事に起因するものと推察している。
ここで言うバランスとは例えば、人口増加に伴い農地を急拡大したり、あるいはゾウ等の野性動物に食べ尽くされるなどでバッタの好物となる植物が一気に消失。
それまで広く浅く分布していたはずが、急激に生息域が狭まった事で集団移動を余儀なくされ、次第にエリアが集約される様に「コロニー」を形成して行くにつれ、狭い範囲内で集中的に繁殖。
その結果、逆に生態系の優位に立ってしまうほど増殖に歯止めがかからなくなり、エサが不足して更に集団移動を重ねる様になった。
あるいは、それら開拓や動物の食事が大規模化するにつれ、特殊な免疫力を持っていた植物まで失われたり、また連鎖的に同じエリアに棲んでいた天敵(カマキリなど)も居なくなる。
この他、特定の薬剤や肥料の偏りによって土壌の生態系にも偏りが生じ、やはり天敵に相当する微生物や細菌が住めなくなったり死滅してしまった等、様々な面での複合的な要因が考えられる。
いずれにせよ、前編にて例示した「ダンゴムシが居なくなったらバッタが大繁殖して庭の植物を食い荒らした」と言うエピソードと同じく、このサバクトビバッタにも大発生するだけの要因が絡んでいて、そうなった理由があるはずなのだ。
いずれにせよ、この根元を特定しない限り、単なる対症療法が続くばかりで本質的な意味での解決は遠い様な気がしてならないのが率直な感想である。
もっとも、だからと言って「ダンゴムシを増やせばバッタの被害を抑えられる」などと短絡的に結論づける事は出来ない。
それでまた大繁殖したダンゴムシの被害に取って代わるとも限らず、いわゆる「ハブ対策にマングースを導入したら在来種を駆逐した」事例と同じ轍を踏んでしまうリスクがあるのも事実。
従って、過去の反面教師が多数存在する以上、安易な「天敵の導入」は余計な混乱状態を生みかねないので厳に慎む必要がある。
ただし、少なくとも判っている事は、この現代社会の中では生物の住み処が激減し、それによる相互関係や循環作用も大分落ちているであろう点は考慮に入れる必要がある。
つまり、元々の生態系が正常であったなら、ここまで被害が拡大する事も、問題化して話題になる事も無く、一定内の範囲や期間で留まっていたように思えてならないのだ。
しかしながら、ならば生態系を正常化すれば解決など早いものに思えるが、事はそう単純には行かないのが実情。
そうする為にも、先ず最初に解決しておきたい課題が存在する。
では、その「一例」を取り上げる形で、以下に話を進めてみよう。
🌑有機物の栄養分を土壌に還元した方が良い🌑
特に近代においては、落ち葉などの「有機物が土壌に堆積するシーン」が減少しているのは間違いなく、それと連動する形で循環役の生物も減少しているものと考えられる。
その具体例として現在、仮に緑豊かな公園であれ何処であれ、概ね人間の住むエリアで発生した落ち葉や刈られた雑草などは基本的に「ゴミ」として扱われ、その大半は焼却場や処分場に移送されているはずだ。
当然ながら、それは場所の景観を維持する為に必要な措置ではあるし、また「そこから沸く虫」などを防止する目的もあるのだろう。
だが、実はこれにより一つ、美観と引き換えに失われたものが存在している。
それがズバリ、「その場、その土地、その土壌に養分が還元されていない」と言う点である。
即ち、この落ち葉や雑草に蓄えられていた養分が本来あるべき場所に戻らなくなり、それらが不足し続ける事で樹木の衰弱などに発展する要因ともなりかねないのだ。
しかも、これら植物から発生する「有機物によって生息していた生物」が減少する事で、更に分解と循環に滞りが生じ、ますます環境全体の基礎体力が下がってしまい、特定の種類に偏った病害虫の蔓延を許す事にもなる。
結果として、その場所から「皆の元気の源」となる有機物が失われるほど、誰にも養分が回らなくなり、やがて抵抗力が落ち、本来なら防げたものが防げなくなって行く。
といった展開も予想される。
更に、この影響は短期的に顕れるものでは無く、長期的かつ「後々になって明るみに出るパターン」が大半であるものと考えられる。
また具体的に説明すると、いわゆる「造成された土地にある樹木」などは、比較的近年になり植樹されたものが主である。
それらは栄養状態などが適切に管理された環境下で栽培されていたはずで、植樹後の暫くの期間は「鮮度」が保たれている事だろう。
特に経済成長が始まった頃の土地であれば、まだ近隣に自然が多く残されていた為、現在よりも生態系としては豊かな方であったのは確かだ。
また、かつては樹木から出た落ち葉や周辺の雑草なども隅っこで溜め置かれたり、あるいは燃やされ灰となっていたので、大半は「その場」で処理され養分も循環していた事になる。
つまり、「それまで」はまだ環境的に健全さが維持されていたし、そのお陰で「今」も問題など無い様に思えるからこそ、些細な生態系の「変化」や「異変」に気付く事も無かった訳である。
だが、樹木の寿命は長い訳で、十数年から数十年の月日をかけて影響が顕れるもの。
とすると、もし本当に近年になり循環が失われている場合、「その先」で事態が急変する様に、一気に劣化が進む可能性が有り得る。
然るに、この構図を解りやすく個条書きでフロー化すると以下の様な形になる。
元々あった場所から落ち葉などの有機物が減る。
↓
それらを餌にしていた生物が減る為、分解され循環する量も減る。
↓
本来なら分解されていたはずの養分が土壌に還元されず、樹木への供給量も減る。
↓
幾ら枝葉を繁らせても結果的に除去されてしまう為、土壌も樹木も徐々に痩せて行く。
↓
養分が薄まるほど土壌に住む微生物の種類や数が薄まり続け、やがて誰も循環出来なくなる。
↓
全体の生命活動が滞る事で病原菌や害虫の蔓延と偏在が起こり、回復が追い付かず悪循環に陥る。
↓
土地が荒廃して終了。
概ねこの様な具合いである。
要するに、本当の意味で循環するには「その場に有機物が残っていなければサイクルが成立しない」と言う事。
そこに無ければ必然的に養分も減り続けるばかりか、分解と循環を担う生物も住めなくなる一方となり、最悪は「誰も生き残らなくなる」のだ。
それを踏まえた上で希望的観測を述べてみると、こういった落ち葉などの有機物をゴミとして回収したり処分せずに、「同じ場所」で処理するシステムがあれば良いのではないかと考えている。
いわゆる「天然のコンポスト」みたいなものを設置すれば、本来その場に居るべき生物達が継続的に生息し、適切に分解が進み、養分が土壌と樹木に還元される事によって、その環境全体を健全に保つのに大きく寄与するものと予想されるからだ。
その結果として、多様な生物が互いに「拮抗」したり「補完」する関係により、養分や微生物の偏りを是正するほか、先で例示したサバクトビバッタの様な一方的な生物の繁殖を防ぐ事にも繋がるはず。
ここまでに記した事例や仮説を参考とするに、それら循環作用によって生態系が正常に戻れば、被害も最小限に留められると言う寸法なのだ。
そう考えると、まだ希望の種があるらしい事も解って来ます。
いくら状況が芳しく無いとしても、まだまだ出来る事はあるはずなのです。
そんな訳で、次の項目にて〆と参りましょう。
🌑自然のサイクルを再現してみよう🌑
さて、ここまで「ウドン粉病が消えた理由」について、そのメカニズムについて長々と考察して参りました。
しかしながら全体の流れをご覧の通り、このウドン粉病が発症した事にも症状が消えた事にも、あるいは病害虫が発生する事にも、はたまた生態系の偏りが起きる事にも、必ず「そうなる理由」が存在していて、実際は全ての因果関係が繋がっている事がお分かり頂けるのではないでしょうか。
しかし、このメカニズムを理解する事で、新たな解決策を導き出すのも可能になって来ます。
その案としては上でも例示した様に、自然のサイクルを再現する意味で、どこか空いたスペースに有機物を集積させるなど、いわば「マイおがくず」などを始めてみるのも一興でありましょう。
ここまでの検証結果を参照するに、これら有機物の集積場が各所にある事により、人為的に作られた環境において生態系のバランサーを担い、土壌のクオリティを一定に保つ機能を果たしてくれるのでは無いかと考えている。
その上で、もし当記事をご覧の中で、栽培物の不調に悩まされていたり土壌を改善したいと考えている方がいるのだとすれば、モノは試しで庭の一角や空いたプランターなどに落ち葉や抜き取った雑草などを集めておき、マイおがくずを設置してみるのは一手でないかなと。
そこで熟成された土を使えば、様々な生物達による循環が発揮され、養分が樹木などに行き渡り活性化し、結果的に病害虫の蔓延を防ぐ事に繋がるなど、まさに劇的ビフォーアフターとなる可能性も有り得ます。
ただし、これら記述は仮説に過ぎない部分も多く、まるっきり鵜呑みに出来る訳でも無いのが正直なところ。
ここまで言っておいて何なのだが、これら一連の現象は「人がイジった環境」に由来するものが基本構造にある為、それを解決しようと「また人が介入する」事で余計にバランスが崩れ、一歩間違えれば逆効果ともなりかねない側面もあるのが実情です。
従って、あくまで一つの参考資料に留まるものとして、中長期的なスパンで注意深く経過を伺いながら試行するのが肝要と言えましょう。
更に、これまで何度か述べている様に、「メチャクチャ色んな生物」が発生する事だけは念頭に置いておく必要があるので、苦手な人はご注意を。
当然ながら、それでまるっきり無事に済むとは限りませんし、栽培物が噛られたりする事も然りです。
まぁ、それも一種の「ガーデンのガーディアン」みたいなものだと思って、少し位は許容しつつ生暖かく見守ってあげて下さいな。
さて、ここまでを踏まえて導かれる結論を述べるとすれば、「自然界ってよく出来てる」と言う事。
月並みだが、これが真実であり本質であろうとも思います。
その意味では、農業であれ家庭菜園であれ、これから先の時代にとって重要なメッセージが示唆されている様でもあります。
そして何より、本来そこに住んでいた生物を排除するのでは無く、むしろ居てもらう事で栄養分も作ってくれるし防波堤にもなってくれているのだとすれば、むしろ彼らの存在そのものを受容する事こそが「共生」なのではなかろうか。
いやむしろ、実際のところ人間は彼らによって守られているし、そのお陰で生かされているとさえ言っても過言では無いのかも知れません。
そんな真相の一端が、当プロジェクトを通して明らかとなるのでした。
では、また、CUL。