先日、スバルのインプレッサSTIを運転している女性を見かけて、思わず。
「パッシング・・・!なにっ・・・女っ!?」
みたいな気分になった私です。
無論、頭文字D的な意味で。
頭文字D読んだ事ないけど。
ちなみに、記事のタイトルは、某シューティングゲーム「超兄貴」にかけてあります。
えぇ、本当にどうでも良い話ですね。
とまぁ、身近な生物シリーズなんですが、今回は大して内容は無い様です。
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で、これは今年の初夏に撮影したクロアゲハ。
夕方、民家の壁にいた所をパチリ。
飛んでいる姿はよく見るが、こうして止まっている所をしげしげと眺めるのは何年ぶりか。
接写しても逃げないが、寝ているのか、はたまた疲れているのか。
と言うか、暗がりでフラッシュを焚いて撮影すると、羽の色彩がより強調されて浮かび上がるんだなぁ。
一見すれば真っ黒だけど、しっかり見れば鮮やかなシルバーの模様が反射しているのだった。
アゲハ蝶の中でも、一際黒く大きく立派な姿は、オニヤンマにも似た存在感があり、文句なしに格好良いのである。
近所では蝶が多く、毎年美しい姿を見せてくれる。
今年もアゲハの仲間を始めとして、モンシロチョウにモンキチョウ、タテハ、シジミチョウにセセリとお馴染みのメンバーが現れてくれた。
また、スジグロシロチョウの一風変わった「求愛行動」が見れたりと、思わぬシーンに出くわしたり。
彼らが居るのを見ていると、まだまだ周辺の環境は生きているのだと実感する部分だ。
しかしながら、これだけで終わるのも寂しいので、ついでに思い出話をば。
僕がまだ幼少の頃は、今より遥かに蝶が多い場所がザラにあり、よくアゲハの幼虫に柑橘類の葉を与えて、成虫になるまで育てたものです。
近所のカラタチやユズの樹を見れば、必ずと言って良い程に幼虫が居て簡単に捕まえる事が出来たし、また、そう言った庭木に飛来し産卵する姿を見るのも、頻繁にある出来事。
そして、それが「普通」の光景だった。
それこそ、90年代まではスーパーで売っているキャベツにも、モンシロチョウの卵や青虫が残っているのは、普通に良くある事だった。
それでも別に、誰も文句とかクレームなんて付けていなかったし、居たところで「あ、虫食ってら。そう、いたんだ」程度の認識でしか無かった。
と言うより、当時は「虫が食う野菜は安全」とされていた位で、むしろ子供からすれば、見付けた時などは「当たりクジ」を引いた気分になったものである。
当然、虫が嫌な場合は、自分でつまみ出すなり洗うなりすれば良いだけの話。
余ほどに酷く無ければ、虫食い部分も切り取って食材に活用する。
あくまで棄てる前に、「食べれる様に工夫」するのが当たり前でもあった。
ある意味では、生き物自体がごくありふれた存在。
故に、それらに対する認識が自然体な人が多く、取り立てて騒ぐ必要すら無用の、「大らかな社会通念」が浸透していた時代だったとも言える。
勿論、その青虫達も、そのままキャベツの葉を与えればモリモリ育ち、割りと簡単に羽化させる事が出来た。
蝶類は幼虫から成虫に至るまで、表に出ている分だけ観察が容易で、その過程が全て見れるのが面白い。
日々、虫籠の中で大きくなり、サナギになるまでの一連の姿は、否応なしに生命の神秘性を感じさせてくれるのだった。
ましてや、小学校の夏休みの自由研究なんかでは、こうした昆虫の育成は鉄板ネタの代表格。
誰が一番「ヤバい」虫をゲットしたのか、あるいは成虫にさせたかで競ってみたりで、一種のステータス・シンボルに近い扱いでもあった。
今はネットで自由研究が買えるらしいけど。
その蝶類も時に、幼虫期は害虫扱いされてしまう事がある。
だが、成虫はハチと同じく花粉を吸いながら受粉を促してくれる、重要な「触媒(送粉者)」の役割りも果たしてくれている。
そうする事で、再び植物は交配され、やがて実を付け、次の世代へ種が存続して行けるからだ。
蝶が多い場所は、植物の植生も豊かである場所が多い。
彼らが多い分だけ、更に交配は進み植物が実る事となり、それだけ他の生物の「食糧」も増えて行く事になる。
アブラナ(菜の花)が生い茂る野原で、沢山の蝶が舞う光景を見た事のある人も多いとは思いますが、つまり「そういう事」なのです。
自然界は、そのサイクルによって適切な形にバランスが保たれている。
そう、人間がどうこうした所で、結果的に「持ちつ持たれつ」の関係なのです。
とまぁ、一匹のクロアゲハから始まり、過去の社会、そして自然界のサイクルまで思い起こした訳ですが、何れにせよ、いつまでも残しておきたい自然の造形美。
また来年会える事を楽しみに。
おまけシリーズ。
NHKみんなのうたより。
「キャベツUFO」
https://youtu.be/Y2LdV4GS2o0
今、改めて聴くとやはり、この時代は生物に対する「寛容性」があったのだなぁと、しみじみ思い出す次第です。
では、また、CUL。