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マグロ、ウナギの資源量について

マグロ、ウナギの資源量枯渇が叫ばれる昨今。
ニュースを見ていて違和感を覚える事がある。


端的に結論から述べれば、この「資源量の減少」の「根本的な原因」。


それは、「売り手(商人)」に重大な責任があると考えられるからだ。


ニュースやメディアでの報道を見る度、何時も気になって仕方ないのだが、何故、最終的に「捕る側(漁師)」と「消費者」の「意識」として責任転嫁されるのか。


これは問題のすり替えだろう。


そもそも現在、資源を「消費する」方に仕向けているのは「売り手」な訳で、実際は「無くても大して問題無い」ものが大半であろう。


過去と比較して人口も消費量も減少する中、モノ(ここではマグロ、ウナギ)だけが反比例して供給が増えている様な感覚を覚える。


大体、漁獲量どころか、取引までもが制限されそうな中、特にに「売り手」が販売を抑制する動きは見られない。


まして、堂々と宣伝を行うあたり、本当に資源に対する危機感があるのか甚だ疑問である。


メディアもこの問題を認識して特集しているのに、土用の丑の日には「鰻美味しいですね~食べたいですね~」やら、「本マグロの名店!まさかこの値段で!」などと煽るばかり。


「問題がある」としつつ「でも気にせず消費しよう」と言わんばかりだが、これこそ、ただの印象操作でしかないだろう。


消費を煽るのは常に「売り手」のはずなのに、それが何故、まいど最終的に「消費者」の責任とされるのか。


勿論、「消費者」が求めた面も大きいのは事実。


消費者の「あれが欲しい」、「もっと安く」、「更に沢山」との求めに対し「売り手側」が応じて来たからだ。


モノのクオリティ向上や供給の安定性を考えれば当然のサイクルなのだが、しかし、そのサイクルは無限では無く、ある一定の「ボーダーライン」を越えればバランスを失う。


要は「売り手」と「消費者」の間で、「資源量」を無視した「需要と供給」による悪循環が生まれている訳である。


そして現在、影響のある順は以下となる。


一番「売り手」

二番「捕る側」

三番「消費者」



そもそも、この「資源」について、本来なら「捕る側」が大きな影響力を持っていた。


売り物は「捕る側」がいないと確保出来ないし、沢山捕れればその分だけ収入が得られたからだ。


しかし、現代においては「売り手」の影響力が上回っている。


この事は、大手流通や商社で働く人ならよく理解している事だろう。


ここで言う「売り手」とは、「スーパー、デパート」等の流通、そして「寿司屋、レストラン」等の飲食店を指す。


そもそも、マグロもウナギも本来なら季節や地域差に左右されたり、あるいは漁法も限られる為、実際は「食べる機会の少ないモノ」であった。


しかし、それまで「捕る側」と「消費者」で価格や「価値」を決めていた所に、彼ら「売り手」が出現し、全てをコントロールし始めてから歪みが生まれた。


それは「お客さまへご奉仕」やら、はたまた「社会貢献」などと言う耳障りの良い言葉で隠されてきた為、見えなくなっていた「闇」でもある。


そんな「闇」が生まれた経緯を簡単に表すとこんな感じだ。



☆魚捕り(うおとり)物語☆


捕る側「この魚めちゃウマだし、近所さん以外にも知ってもらいてぇし、もっと沢山売りてぇなぁ」


売り手「お、これ素敵やん。うちの店にも卸してよ」


捕る側「承知つかまつったぜぃ!ジャンジャン頼んまさぁ」


消費者「コレね~美味しいし安いしいつでも手に入るから助かるわ~」


売り手「これバカ売れで商品足りないよ。お金稼げるからもっと用意して」


捕る側「ガッテン、沢山捕ってきやす」



※ここで立場逆転。



売り手「捕りすぎて価値下落しちったよ。でも加工品に回すし、もっと頑張って」


捕る側「ヘイ、お任せを」



そんな順調な中、ある時を境に異変が。



売り手「なぁ、最近仕入れが困難になってきたんだけど、何で?」


捕る側「実はなかなか捕れなくなってきやして。サイズも年々小さくなって、売れそうにないゴミばかりなんでやんす」


消費者「最近値上がりして困るわ~もっと簡単に手に入れたいわ~」


売り手「ホラ見ろ。お客さん待ってんしゼニ稼げねぇぞ。代替品でも漁場開拓してでもいいから捕ってこいよ」


捕る側「ヒャハー!!巻き網だぜぇ!!雑魚もよこしな!」



しかし、漁はサッパリ振るわず…。



売り手「何だコレっぽちかよ。あいつら使えねーなあ。仕方ねぇから海外の魚仕入れるべ。国内産?テキトーにブランド化すればいいっしょ。消費者に味なんて見分けつかねーよフヒヒ」


消費者「コレ、タカイ。モット、ヤスク。ウッテナイ、ダメ」


捕る側「鯔鯔鯔鰡鯔鯔鯔鯔鯔ボラァァァアーーー!!!」



こうして漁場は荒れ、後には焼け野原。

資源探しに「売り手」は今日もゆく。

~終~



大体、「捕る側」の漁獲制限をした所で、「売り手」があの手この手で資源を確保しようとする限り、この流れは止まらないであろう。


つまり、本質的に資源保護の観点では、「捕る側の漁獲量」と同時に「売り手の販売量」も制限されなければ、結果的にバランスが合わなくなってしまうのだ。

言い替えれば、これまでは「水道の蛇口を全開」にしていた上に、あちこち「増設」しまくっていた状態。
ならば、ここで一端蛇口を締めて、どれ位の「水量」が適切であるか見直さねば、いずれダムが枯れてしまいかねない状況だとも言えるだろう。



そもそも、「売り手」は「資源量」など気にしてはいられない立場である。


当然、沢山売らなければ事業も拡大出来ないし、拡大すればする程、維持に更なる資源が必要となるからだ。


日本の漁獲が不安定になれば海外資源に手を伸ばし、希少となればあの手この手でブランド化し、付加価値をアピールする事で消費を煽り続ける。


そうして、末端である「消費者」はやがて麻薬漬けにされるが如く「売っている事、食べられる事」が当たり前となり、やがて「貴重品」だった「本質」を見失っていく。


勿論、ここで「消費者」の意識に責任を問う気も無ければ、責める立場にも無い。


僕もスーパーの鮮魚は買うし、たまに回転寿司も行く。


しかし、それはあくまで「そこにあるから行って買う」と言うだけの話であり、実際は「無くても良い」モノが大半である。


何より、元々は寿司屋も大型スーパーもあちこち沢山溢れて無かったではないか。


そう、「無ければ無い」で人はまた「慣れる」し、そもそも過去には「これほど大量に売ってはいなかった」のだ。


つまり、「無くても良い」モノを売り続けた結果が、「資源量の減少」の根本的な原因である。


重ねて言うが、この流れを止める手段は1つしかない。


それは「流通量」の制限である。


「捕る側」の漁獲を制限しても、「売る側」が量を減らさない限り、代替品を使ってでも利益を確保し続けるだろう。


それは「スペイン産クロマグロ」、「メバチマグロ」、「ヨーロッパ(中国)ウナギ」、「タラバガニ、ズワイガニ」に代表される様に、他国の資源まで手を出し、食い尽くすのではないかと警戒されるに至った現状が証明している。


そして、上記の海産物は現在も日常的に何処でも目に入る事からも、「売っていて当然」の扱いである事は明白だ。


流通量の制限と聞いて、「価格の維持」や「雇用」がどうのと言いたい向きもあろうし、「競合各社がいる事でサービスの向上が図れる」と言う人もいるだろうが、根本的に「資源」が枯渇すれば、それこそ雇用もサービスもクソも無い。


冷静に考えてみれば、小売店も飲食店もあんなに大量に売る必要性はあるのか?


1つの町に何件も同じような大型スーパーや寿司屋があってどうする?


ウナギの国内流通量の約80%が輸入物って異常過ぎないか?


そもそも、そんなにウナギもマグロも流通させないと、「飢える消費者」が出るのか?



勿論、「食べていく為、生きていく為」には仕方の無い事ではある。


でも、「ある事が当たり前」の感覚のまま事業拡大を続けていけば、やがて自分で自分の首を締める事にならないか。


ここで、「嫌なら行くな、嫌なら食うな」と言うのは短絡的だろう。


要はこれからは「適正な状態」にあるべきであり、「捕るな」「売るな」「食べるな」と言っている訳では無いのだ。


過去にニシンが捕れなくなり、現在はイワシやサバも急減している。
(養殖マグロも大量のイワシが必要で、サバも回遊魚にとって重要なエサだから、これらが居なくなった場合、連鎖的に供給量が減る事になる)


これが人為的な要因だとすれば、それこそ過去から何も学んでいないではないか。


大袈裟に言えば、僕はマグロにせよウナギにせよ、一年だろうが二年だろうが食べなくても平気だが、絶滅危惧種に指定された挙げ句に漁獲自体が禁止されて、「一生食べられなくなる」のは嫌だ。



何にせよ、金の鉱脈も皆で「無制限」に掘り続ければ、そのうち枯れてしまうよ。



まぁ色々と好き勝手言わせてもらったが、寿司もウナギも「ハレの日」に味わう位の贅沢品である方が、「食べる有り難み」が感じられて良いと思うけどね。


だって今どき、すぐ「食べれない」とか言って捨てる様なマネばかりしてる訳だし、要はそんなに必要無いって事でしょ。




長々と何てエラソーな独り言なんだ。

でも、オカシイ事は言ってないと思う。