CULrides カルライズ

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食べ蒔き番外編 ゴーヤのタネと生命力

前回のレビューでは尺の都合でハショッたのだけど、ちょいと触れておきたい話題が一つ。
culrides.hatenablog.com


今回は、これまでに収穫されたゴーヤのタネの状態を確認してみようかと思います。


前回の「旬」に付随して、このタネからも様々な事が解って来るのですが、これが少し示唆的な内容になったので、ならば記事化してみようかなと思った次第なのです。


では、いざ。


🌑タネのクオリティ=再現性🌑

これは前回のレビューにて、一番大きいサイズだったゴーヤの中身。
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画像上段では、果実のサイズに応じてワタの部分もコンパクトに形成されている。
でも画像中段のタネ自体は、通常の品種と姿形は大きく変わらない。

また更に画像下段のタネの方は、いわゆるゼリー状の皮膜を纏っており、部分的にオレンジ色をしている。
全体的な質感は未熟果のソレなので、収穫期としては適切な方だったと言えそうだ。



さて、これらタネは、実際には元々の品種より一回りほど縮小されたサイズである。

ただ、果実が一気に縮小されたからと言って、必ずしもタネまで極端に小さくなる訳では無い所が興味深い。
何故かって、「果実は小さいのにタネはデカイ」訳で、それはつまり「小さくても子孫を残す能力は充分」である事も意味しますからね。


これを言い換えれば、仮に実生のせいで劣化ないし先祖返りを起こしたとしても、その「リセット幅」は小さいものとなり、根本的な生命力までもスポイルされるには至らないと言う事でもある。
その意味では、これまで食べ蒔きで栽培した作物が軒並み劣化し矮小化しカオス化していた事と比べ、随分と「まとも」な姿に映るだろう。

この辺で、改めてゴーヤは原種に近い生命力と言うか、プリミティブな性質が残された作物なんだなと実感する所である。



ちなみに、今夏に収穫した方のタネも保管していたので、そちらと元々の品種のタネのサイズを比較してみよう。
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画像左が、市場の果実から採種したタネ。つまり「元ネタ」。
画像右が、当プロジェクトで収穫された果実から採種したタネ。

やはり、市場の品種と比べれば一回りほど縮小されている事が判る。


それでも収穫された方の中身はミッチリ詰まっていて、クオリティは良好。
この状態からして、恐らくは次も生えて来るものと予想される。
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むしろ、市場の品種から採種したタネの方が中身とカラの隙間が多く、指で押すと簡単に割れて潰れてしまうパターンが多かった。
果実のサイズは圧倒的に大きいのに、タネだけは妙に脆いのが不思議である。

何なら、今期で採種されたタネの方がミッチリ詰まっている分、余計に強く感じられるのは気のせいか。



上記の現象は前期でも触れているが、どうやらゴーヤは株の成長率、あるいは果実の外観と中身には関連性が薄い傾向にあり、一定の環境条件で生育してさえいれば、自然と「次世代向けのタネ」が生成されると言う事なのだろう。

その意味では、やはり他の作物に比べて「子孫を残す能力が高い濃度で残されている」証左とも捉えられる。
culrides.hatenablog.com


これは実際、食べ蒔きでは先祖返りが強く反映され過ぎて、その大半の果実が矮小化すると同時に「タネの機能まで劣化してしまう」パターンが多かった事例と比較するに、特筆すべき現象だと言える。


例えば、昨年度に食べ蒔きで実った他の作物で言うと、極度にタネが未熟だったり(例:カボチャ)、あるいはタネ無しになったり(例:トマト)、はたまた再び植えても育たない(例:今期のメロン)など、再現性の無いタネになってしまうパターンが多く発生してしまった点でも、ゴーヤとの違いが明白となる。

逆に言えば、それら「タネが機能しなかった作物」とは、もはや生命としての能力をスポイルされてしまったか、あるいは根本的に失ってしまっているであろう姿が、ゴーヤとの比較で露になるのだ。



となると、このタネの話と前回の旬とを符号させた場合、別の側面も露になる。


それは、今後さらに気候変動が進行すると仮定した場合、現代の様に作物の生命力が低下しすぎては、劇的に「種の生存率」までも低下しかねないと言う事。

更に言うと、今ある作物から「自主的な再現性や継続性」が失われて行くほど、何かしら環境変化が起きた際に一網打尽にされるだけでなく、それ以降の子孫も生まれないか、または個体の絶対数が足りず繁殖が追い付かなくなる事態に発展してしまう。

これを突き詰めれば、やがては育つものも育たなくなってしまい、いずれ食糧自給率にさえ影響を及ぼす事にもなりかねない。


何しろ次世代のタネは弱いし、成長する為の気候(旬)も合わないとなれば、誰も生き残らないなど自明の理。
だからこそ、雑草の如く「自ら育つ力」を持つ存在が必要になって来るし、それらが環境の適応に対するカギを握る事になる。

いうなれば、ゴーヤの様に植物本来の能力や性質を保持しているのは、それだけ重要な意味があるのだ。


つまるところ、「タネのクオリティ=再現性」と言うのは、今後も種族として存続する為の必須条件。
作物やら植物とかの話以前に、そもそもタネからタネへと能力や性質を受け継げなければ、生命体として継続性が無くなってしまうのである。


これを翻せば、先の時代には「それを出来る品種」が求められるのではないか。
そして、それを今から探したり再生する必要もあるのではないか。

この様な結論も導き出されて来るのです。



なんて大袈裟な話になっておりますが、これは単に個人的な感想であり、当プロジェクトでの観測を基にした予測に過ぎません。

いずれにせよ、そんな「人類に対するメッセージ」の様なものが、今回のゴーヤを通して明らかとなる訳ですが、皆さんは如何に思われるでしょうか?


やはり僕としては、食べ蒔きを(以下略



では、また、CUL。