さて、前回は妙な場所に執着を見せるミツバチの集団を発見。
その行動について観察してみました。
その1
今回はそれと付随して、この現象から考えたいのが、ミツバチの「失踪」について。
所謂、「ネオニコチノイド」系の農薬が由来とされる、生息域の減少と何らか関連するのでは無いのか。
そして環境の変化が、如何に生態へ影響を与えるのか。
その仮説について、お話を進めてみましょう。
まず、結論から始めると。
もしこの様な水場の周囲で、それらの農薬が使用されていた場合。
水に流れ出した成分も影響するであろう事は想像に難くない。
つまり、果樹や草花に散布された農薬を花粉では無く、「水場」からも得ていたとすれば、それが失踪や減少の一因となっているとも考えられる。
だとすれば当然、農薬が散布された場所とは直接的な関係の無さそうな、川の「支流」や「下流域」などは勿論の事。
雨の後などで、土を通して「溶け出した先」でも同様となろう。
それは無論、この記事にある様な些細な涌き水や側溝、そして水溜まりにおいても。
この失踪や減少に至る「経緯」について、前回の記事と絡めた仮説は以下となる。
(1)仮に、彼らが「この側溝」の「この位置」で、何らかの要素が「複合」する水場でしか「必要物資」を確保出来ない場合。
要は、「特定の条件が揃った場合」でのみ、ミツバチの行動が決定付けられているのだとすれば、実際の「生息可能域」や環境は限られている可能性が高いはず。
簡単に言えば、ほんの僅かな環境の変化によって、 ミツバチは「生きる場所」を失うかなり繊細な生物と言える。
(2)本当に農薬が影響していると仮定した場合。
「その場」にピンポイントで何かしら化学物質が流れ込み、その成分を摂取し体の組織に作用する事で、「正気」を失う。
要は、人間で言う薬物で「ラリってる」状態であるとか、身体感覚の一部が「麻痺」していると言う意味。
あるいは、かつての「水俣病」や現在の「認知症」に近い症状も考えられる。
で、そのまま失踪してしまう可能性がある。
(3)やがて(1)と(2)の会わせ技が、トドメになる場合。
(1)で住み処が限定されているならば、(2)が発生した時点で、根本的に生きる術が無くなる。
つまり、「他に良い場所」を探そうにも全然見つからない上に、体調も悪くてそれどころじゃないしで、結果的に八方塞がりの状況に陥ってしまう。
以上となるが、上記から見える答えは明解だ。
一見には無関係そうな「陸上生物」の行動においても、実は周辺の「水質」が多大な影響を与えている可能性がある。
つまり、ある生物が消えた原因を探るのであれば、同時にそこの「水質(餌場含む)」にも問題が発生していないかも疑う必要がある。
それらを含めた「相互作用」の観点から、環境の変化を考えるべきではないか。
と言える訳です。
とは言え、必ずしも農薬だけが失踪の原因では無く、やはり「他の要因」など複合的な理由が絡んでいる可能は有りうる。
この記事は、その農法を論点にしている訳では無く、あくまで生物が消える構造と経緯についての考察に重点を置いている。
ましてや、これらの仮説も割りとどこでも言われている話ではあろうし、殊更に強調する様な特色も無いのは確か。
正直、誰でも思い付くレベルの域は出ていないでしょう。
ただし、上記した「環境的な条件」はミツバチに限った話では無く、概ねどの生物にも当てはまる。
それは当然、人間も例外では無い。
ここから先は、その点を踏まえた「例え話」を広げてみよう。
実際の所、人間の世界においても「住む場所(環境)」を適当に決めている訳では無く、選ぶ時は様々な「条件付け」を行っている。
例えば、仕事、交通、家庭、趣味、将来など「複合的」な要素が絡む様に。
それは仮に過酷な「極地」であろうと、住居や食糧など必ず生きる上での最低条件が必要となる。
それを見越した上で、その環境に合わせるか、その場を整えながら生活している。
要は、そこに住むにも「事情」や「意思」、単純に言えば「理由」は各々により違いがある。
と言う事になる。
そこへ、何かしらの「災害(アクシデント)」が発生し、住む場所の条件に「狂い」が生じたとしたら。
必然的に、一時的であれ生活の機能が滞り停止するか、最悪の場合は住み処を離れざるを得ない状況となる。
その時、住まう人はどんな心理状態となり、いかなる行動を取るだろうか。
恐らく、大抵は混乱し路頭に迷ってしまうはずで、そうそう即座に居住を移せる人は多くないはずだ。
まず、別の場へ移動する手間もあれば、改めて生活環境の見直し(立て直し)をするなどで「適応のプロセス」を踏まなければならず、場合によっては多大なストレスがかかるのは想像に難くない。
ましてや、移動した先が必ずしも「適地」であるとも限らない。
また、適応していくにも、周辺の状況(環境)と自分が噛み合う事が前提となる。
だが、そこまで条件を満たす為には、やはり相応の「活力(能力)」を有している必要もある。
何より、それが「自分の意思」とは無関係に発生した事態ほど、一層コントロールが困難で膨大な精神的・肉体的エネルギーを要する事になるだろう。
この様に、人間も条件がフィットしてこそ「生息」している時点で、実は急激な環境変化には対応しきれない事がお分かり頂けると思う。
更に、環境汚染と絡めて例えた場合。
人間の社会でも、「公害問題」によって、いわゆる農産物などの「生活物資」を生産する環境を破壊されただけでなく、「健康」まで損なわれてしまった事例は枚挙に暇がない。
それは、冒頭の仮説でも記した通り。
それこそ、化学物質が土や水を介して体内に取り込まれる構造は、大抵の公害に共通した原理であり、ハチと人で何ら変わらない。
また、スモッグなどの大気汚染でも、最終的に気管や皮膚から体内に入る点では同じだ。
それは、体が「小さい」ほど、その影響は大きく響く事となる。
更に、これが「公害」に発展した場合。
それが肉体的であれ精神的にであれ、人の健康に影響が出た時点で、「周辺の環境」も同様の影響に晒されている状況が殆どだ。
要は、「卵が先か鶏が先か」どころでは無く、原因が発生した段階で「既にどっちも起きてる」訳である。
何度も言う様に、土や水に汚染が浸透してしまえば、その先の動植物へ次々と連鎖的に波及してしまう。
一時的に原因を取り除いたとしても、「循環」の中では残り続ける事になるからだ。
それにより、生きる上での根本となる「食糧」さえ生産が出来ず手に入らないとして。
その上、自らの健康にも支障があるとなれば、必然的に生存自体が困難となってしまう。
結果、ここまでの話を総合するなら、ミツバチにすれば農薬は公害に等しいとの仮説が成り立つ事になる。
何分、極端な話に聞こえるかも知れないが、これが本質的な構造なのは確かだ。
そうなれば無論、その場も生物も「再生」に多大な時間を要するのは明白。
しかも、いくら直そうにも「サイクル」が歪んでしまった段階では、必ずしも元の形に戻るとは限らない。
ましてや、複合的な要素で成立している自然が相手なら尚更である。
やはりその経過によっては、結果的に「根本的」な生活域の変更を余儀無くされてしまうだろう。
その状況に置かれた者の労力は、計り知れない程の負担に違いない。
これらは、先の震災でも嫌と言う程、思い知らされた事実ではないだろうか。
それは何も対岸の火事では無く、あらゆる地域の「マクロ」的な部分で、様々な形で起きている。
勿論、皆さんの身近な場所でも。
上記の様に、生きるに最適な「環境と健康」が無い以上、そもそも生息が不可能であるのは、人間も動植物も同じ。
何れにせよ、その場に「住む」にも「離れる」にも、間違いなく「理由」が存在する事が、これらの例から見えてくる訳です。
身近な生物の生育環境を考えるとは、即ち人間の生育環境を考える事でもある。
今、動物界で起きている事は、実は人間界でも同様の出来事が起きていると言っても過言では無い。
この記事に見られる様な、ごく小さな水場からでも様々な情報が読み取れます。
その観点から生物を観察すれば、もしかすると、その先で「新たな事実」が浮かび上がるかも知れない。
と言う訳で、身近な自然についてこんな見方もあるよと、是非お子様にも薦めてあげて下さい。
もう夏休みは終わったし、自由研究も無いけど。
そんなエキセントリック少年モードで、次回に続く。
では、また、CUL。