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国有林伐採の解決策 最終回「苗木は何処で育てても良い」

これまでの経験と独自の観点から、国有林伐採の解決策となりそうなアイデアを綴るシリーズ、最終回。
culrides.hatenablog.com

今回は、「補足的な話」を記して参りましょう。


🌑苗木は何処で育てても良い🌑

さて、このシリーズでは苗木を育てるにあたり「絶対数」が必要だとして、その解決の為には人員的にも時間的にも充実した「小学校」に手を貸してもらうのが有効であろうとの持論を展開しております。

しかし、この育成に関して言えば、小学校は一例でしか無く、実際は「何処で誰がやっていても構わない」のがポイント。

それは即ち、一定人数が常に揃っている組織ならば、ほぼ同じ要領で再現が可能となるのだ。


例えば現在、企業でも屋上の緑化に力を入れている所があるし、昔から個人経営の会社でも敷地で色々な植物を育てているシーンを見かけた事のある人は多いはず。

そういった中でも、実は小学校以外にも理想的な場所となるのが、いわゆる「養護老人ホーム」などの施設ではないかと考えている。


そもそも、ご年配方の中には過去に樹木や作物を育てていた経験の持ち主が相当数いるのは間違いなく、その意味では要領を心得ているだろうし、「核心」を突いた解答だってお持ちのはずだ。

また、認知症を患っている方でも、動植物と触れ合う事で症状が緩和する例もよく知られている。

とすれば、「昔取った杵柄」ではないが、苗木を育てる事で生きがいを見出だしたりなどで、元気を取り戻す可能性は大いに有り得る。
それは即ち、本当の意味で「活力」を発揮する事にも繋がるはずだ。
あるいは、この活動を通して動いている内に何かしら記憶や経験が甦り、思わぬフィードバックを得られる事だってあるかも知れない。

むしろ、本来なら彼らから教えを乞う位でないといけないし、いきなり小学生に一方的に「育てよう」などと言ってもチンプンカンプンであろう。
その意味では、1つの交流の場としても機能する様に思える。


無論、体力減退が著しい中で手入れ作業や無理をさせてはならないのは当然である。

しつこい様だが、この介護施設を例にしたところで、それはやはり「労働」としてでは無く「暇つぶし」。
昔の趣味の延長感覚で、興味のある方を中心に自由に育てて貰えたら充分。

結果的に苗木を用意出来れば良く、ついでに育てるノウハウも共有出来れば大成功なのである。


と、この様に介護施設などは一例に過ぎません。

もし仮に、様々な場所で、これまでに失われた樹木を「育てる」サイクルが動き出したとしたら、それは絶大な効果を発揮するに疑い無いはず。

ここでもまた、「オラにみんなの力を分けてくれ」なのです。
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🌑自然ありきの人間🌑

さて、ここまで植林そして再生への解決策について、わざわざシリーズ化してまで持論を展開して参りました。


しかしながら、何故、そうまでして熱心に語ったのか。


その動機自体は、シリーズ第2回で述べている通りであります。
culrides.hatenablog.com


それを踏まえて、改めて補足的に述べるとすれば、現代は自然環境と人間生活との「分断」が進み過ぎている様な。
最近の人々を見るにつけ、その世代を重ねる毎に「生物間における相互作用との解離」が加速しつつある様な。

そして、これが更に進行するに従い、やがて本当に人間の「生命力」そのものが失われる様な気がしてならないからです。


「生命力を失う?何を大袈裟な」。


と思われる節もあるでしょうが、ハッキリ言って既に「そうなりつつある」と考えざるを得ないのが現状。
もっと言うならば、「生きている生命」と離れれば離れるほど、人間は「一体何によって生きているか」を忘れる事になるからです。

つまり、食べている野菜も、肉も、魚も、家の材料も服も何もかも、実際は「全て自然環境が保たれていたからこそ、生きていくのに必要な資源があった」と言う事実を忘れる事になり、やがて「人もモノも大事に感じなくなるし丁寧に扱わなくなる」様になる訳です。

それを突き詰めれば、即ち結果として「世の荒廃」をも意味してゆく事になります。


この記事で小学校を例にしたのは、早い段階から少しでも「生命体が存在する為のプロセスを実感する体験」を取り戻させてあげないと、やがて「自分や他者の生命にすら興味を失う」様な気がしてならないから。

そして、環境変化に興味を失うと言う事は、その変化がやがて自ら生活するエリアまで波及した時に気付かないばかりか、もし破壊的な影響をもたらした時に「どうして良いか分からなくなる」事をも意味します。
だからこそ今、本来あった本線へと「再接続」する必要があるはずなのです。


これは例えば、地方で農家や漁師を営んでいたりなど、いわば土や自然と触れながら生きていた世代の方々を見れば一目瞭然。

いわば「プリミティブな生活」が身近な人ほど肉体的にも精神的にも健康な傾向が強いのは、「どうすれば作物が育つか」や「どうすれば獲物を捕れるか」など、様々な気候変化や生命体との相互作用を体感する事で「自ら生きる術」を得ていたからでもあります。
いわば一つの生物として、その命を支えるだけの自然的な能力が発揮されていないと、「その環境では生きていけない」訳です。


いや、そもそも人類史を振り返るに、これまでに狩猟採集であれ稲作農耕であれ天然資源こそが全ての根源である以上、本質的に離れる事は不可能。

いくら人間社会でバーチャルな生活が可能になったとしても、そこで「自らの手で直接的に食物を得る事」は出来ず、結局は現実に戻れば「誰かが用意してくれたアイテム」だけに頼る事になる。

自然から距離が開くとは即ち、「生命として生きる本質」そのものと距離が開くのと同義なのだ。


この国有林の伐採とは、確かに自分の生活とは全くと言えるほど無関係であり、別に自ら手を出す余地があるでも無く、殊更に関知した話題では無いのも確かです。

しかし、過去に建築資材として針葉樹を大量に植えた結果、現代になり「花粉症」が爆発的に流行しているのは御存知の通り。

そう、実際は「関係している」のです。


つまり、この国有林の伐採を単なる問題とせず、いわゆる「切っ掛け」として捉え、それが如何なるサイクルで自らの生命と関わるのかを実感出来る場となれれば、まさに発想の転換では無いかと思うのです。

結局の所、どこかで全ては一つに繋がっている。

それを小学生なり若い内から体感した方が、将来的に自らの力にもなるだろうし、人間社会にも有意義なはず。

それが、この記事の要旨なのです。

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などと、ゴタクマシマシイシキタカメな事を思ったりなんかする昨今なのですが、皆様はどう思われますでしょうか?



では、また、CUL。